畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

東北応援企画~日帰り東北の旅~其の5

2011-06-19 12:00:00 | 旅行・観光
 さて、新幹線も含めて乗り放題の「JR東日本パス」。ここに落とし穴がありました。それは、盛岡以北は全席指定の「はやて」号しか乗り入れていない、という点です。「JR東日本パス」は前日までに予約すれば2回まで指定席への乗車が可能です。

1.東京→八戸(はやて号…一番速い)
2.八戸→盛岡(はやて号…以外なし)
3.盛岡→東京(はやて号…一番速い)

 となると、3回の新幹線指定席が必要になります。3番を新幹線自由席にすることもできますが、自由席がある「やまびこ」号は停車駅が多く、帰京が遅くなってしまいます。


 …はて、困ったものだ…と思い、何とか八戸→盛岡に「速く安く」行ける方法を考えてみました。在来線では時間がかかりすぎる(新幹線だとおよそ30分。在来線だと110分以上…)。仕方ないので、新幹線指定席を別料金で払うか…と調べていたら…

「特定特急券」

というすばらしいものを見つけました。これは、盛岡以北に全席指定新幹線しか乗り入れていない対策のため、「新青森~盛岡の間までなら、空いてる座席に座れる自由席扱いの切符」でした。しかもこの「特定特急券」は「JR東日本パス」の新幹線の2回までの指定に含まれずに予約できるとあり、全くの追加費用なしで新幹線を利用できることがわかりました。これって知っていると知らないとでは大きな違いがありますね。



 八戸を14:06発の「はやて」128号に「特定特急券」で乗って、盛岡に14:36到着しました。盛岡を出発する新幹線は17:41発の「はやて」134号東京行を予約していました。つまり、盛岡には移動時間を含めて3時間半しか滞在できません。



 盛岡には2度目の訪問です。以前結婚前の妻と来ました。その時も新幹線で来て時間がなく、盛岡城を簡単にみて、駅前でわんこそばを食べ(記録102杯)ました。
 盛岡は県庁所在地だけあり、駅も大きいし街も大きいです。ですのでたくさんのバス路線が走っています。そこで、バス案内所があったので、志波城方面に行くバスを聞いてみました。

義綱「すみません。飯岡十文字に行くバスはどちらですか?」
案内「13番のりばですね…でも先ほどでてしまったので、次に出るのは15時以降です。」

 …またもややってしまった…。バスがなくタクシーで行くパターン。八戸駅→根城より、盛岡駅→志波城の方が遠いので、タクシー代がかなりかかるのは決定です…。仕方なしにタクシー乗車。


 タクシーで行くと、市街地とは反対方面へ。市街地とは違い大きな川を超えるととたんに建物がなくなりました。道は広いので空いています。
運転手「あちらが志波城ですよ。」

義綱「おお!そういえば。志波城の帰りってタクシーつかまりますかねぇ」
運転手「いやいや、あの辺はあまりタクシーつかまらないよ。もし電車の時刻があるのなら、タクシーを電話で呼んでくださいね。」
と名刺をくれた。確かに周りは田んぼだらけ。タクシーが頻繁に走っていそうにない。バスで盛岡まで帰るのも不安があったし(帰りの新幹線に間に合わなかったら大変)。帰りもタクシー利用がいいと思います。ちなみに私が盛岡駅前→志波城駐車場までにかかったタクシー代は2030円…高い…。



 駐車場を降りると、さっそく志波城の外郭築地塀が見えてもうすでに迫力があります。

 では、志波城とはなんなのか。志波城は室町や戦国時代の史跡ではありません。平安時代の城跡です。781年に桓武天皇が即位すると、征夷大将軍に坂上田村麻呂を任命し、東北蝦夷の征討に乗り出します。802年に胆沢城(岩手県水沢市)を築き、胆沢蝦夷の首領である阿弖流為(あてるい)は朝廷に帰順し投降させます。その甲斐あって、その翌年の803年に胆沢城の北に志波城(岩手県盛岡市)を築いて、北上盆地まで大和朝廷の支配下になりました。胆沢蝦夷の征討に成功したことで、より支配地を広げるために、志波城を築いたと言えます。この地を選んだ理由は、雫石川と北上川の合流地点にあり、海上交通の要所だったと考えられます。

 この志波城は、東北城柵(平安時代の東北の拠点城)の中では、最も北にあり東北の拠点として重要だったことがわかります。また、城柵の中で最大規模を誇り、その勢力の大きさが知られます。

 しかし、志波城は近くにある雫石川の度々の氾濫などの水害に悩まされ、築城からわずか9年後の811年に朝廷に対し「志波城廃城の建議」がなされ、実際に志波城の南に徳丹城(岩手県矢巾町)が築かれ、志波城の役割は終わりを迎えることになったと言われます。


 志波城跡は、かつてその地名から「太田方八丁遺跡」と呼ばれ、古戦場跡と思われていました。しかし1976(昭和51)年に、東北自動車道建設に伴う発掘調査が行われ、築地塀や竪穴住居が発掘され、さらなる発掘調査で政庁などが発掘され、古来の文献より見える「志波城」と確認されたのです。

では、そんな平安時代の城柵である志波城。実際に見ていきましょう!

駐車場には志波城の案内所があります。それがこちらです!

う~ん…プレハブかあ。これじゃああんまり期待できないかなって思ったら意外や意外。

 志波城の復元模型で、史跡全体を把握できます。

 志波城の発掘調査の様子もカラープリントでファイルしてありました。

 志波城から発掘された出土品も展示しています。土器や須恵器などが発掘されていたようです。

 そしてなんと志波城のパンフレット(200円だけでなく)、『志波城跡-第Ⅰ期保存整備事業報告書-』(4000円)が売っていました。後者の本は発掘調査のまとめだけでなく、どのような観点から発掘調査を元に復元を行ったのかが詳細に書いてあります(内容が専門的ですが)。とても面白そうなので迷わず購入。
 そして、もう2つこの案内所の役割があります。志波城にある南東官衙建物が復元されていて、建物ないに展示物があるのですが、常時開館しているわけではなく、案内所の方に言わないとあけてくれません。ここまで来たのに官衙建物を見ないのは本当に損です。だから迷わず申し込みます。
 それともう一つ、すべての見学が終わったらタクシーを呼んでもらう。自家用車やレンタカーならいいのですが、あまり広い道路が付近にないので、流しのタクシーを拾うと思うと結構な時間のロスになりそうです。
 案内所は年間を通して、12月21日~3月14日までの期間を除いて年中無休だそうです。雪深い時期を除けば休日平日関係なくいつでもやっています。ぜひ案内所によって全体像を把握してから史跡を周りたいものです。


 それでは、案内所を出ていよいよ志波城に向かいましょう。

 このロケーションが一番キレイなので最初に紹介します。この写真だけをみるとすぐにでも、外郭南門に行きたくなりますが、もっとここは詳しく見ていきましょう。




 案内所からまっすぐ東へ進むと、このような石碑展示パネルがあります。ここで改めて志波城の全体図や概要をつかむことができます。

 パネルにはこのような想像図が載っていますので、当時の様子をイメージすることができます。

 これは外郭の築地塀を作る時の枠型だそうです。築地塀は土を固めて作ったものなので、こういう枠組みが利用されていたんですね。


 では、外郭南門に戻りましょう。「外郭」というくらいなので、ここは志波城の一番外側ということがわかります。でさらにいきなり門へ行かずに注目するところがありました。

 まずは、この堀です。外郭築地塀のさらに外側にある外大溝です。この外大溝は四方合の一辺が928m(合計で3712m)にもなりかなりの大きさを誇ります。現在南方の外大溝のみ確認されており、あとは道路の下となっているそうです。この外大溝は、志波城の前に築かれた胆沢城や、志波城の後に築かれた徳丹城でも確認されておらず、志波城の大きさと堅固さを物語るものです。



 正面に見える、志波城の外郭南門からまっすぐに南に延びる道路。道路の幅員は18メートルとかなりの幅があります。外大溝から30m南まで道路が確認されているようです。本当はもっと伸ばす計画があったのかもしれませんが、志波城の歴史がわずか9年で終わってしまったため、城外の計画まで広がりをみせなかったのかもしれませんね。



 そして、いよいよ外郭南門へ到着です。壮大な五間の正門で朝廷の権威を象徴する門であったと考えられます。そして門の東西には土で固めた築地塀(築地大垣)が建っています。塀は厚さ2.4mで高さ約4mとかなり大きなものです。しかもこの築地塀を60m間隔で櫓跡が発見されています。

 この外郭南門には2階があり、内側から登れるようになっています。しかし、ハシゴは閉鎖されていて見学はできませんでした。その代りこのように石碑の写真で2階の様子がうかがえます。



 志波城全体でこの櫓跡が52棟確認されており、そのうち外郭南辺の築地塀で12棟が確認されています。この櫓は当然兵士の見張りとして作られたようで、築地塀の内外をまたぐように櫓が建っていたと考えられています。それにしても、こんな大規模な櫓があったというのは驚きです。室町戦国の城郭ではあまり見かけない形ですが、中国の三国志のような形をしているような気もしますね。



 志波城の築地塀(築地大垣)のすぐ外側にも溝があります(築地外溝)。幅も深さも一律ではないようですが、それにしても外大溝に築地外溝と、その規模がすごいですね。

 さて、写真をみると気付くかと思いますが、築地塀(築地大垣)の南辺も全部は復元できなかったようで(費用的な問題か?)、あとは写真のような生垣で示しています。それでもその塀の長さが伝わるようにしている点がすごいなあと思います。


では、いよいよ志波城の城内へ入っていきましょう。その様子は、第6弾でお伝えします。