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今回の義綱城館訪問記は静岡県の西の端にある「山中城」です。と言っても私がここを訪れたのはもう約3年ほどの前の2016年11月。それまで写真をアップしなかったのは、写真が多すぎて整理ができなかったから…という言い訳に近いもの。では、ご紹介していきましょう。
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静岡県三島市にある山中城は東名高速三島ICから車で20分、観光地箱根からわずか30分ほどの距離にある。私は当初箱根観光のついでにちょっと見ようと思った程度で訪問した。そうしたら、ビックリするほど整備されていた城跡だった。駐車場もあり、ちょっとした休憩場所や飲食場所もあるので、歴史好きには簡単に訪問できる良スポットである。
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山中城は、駿河と相模の国境にある箱根旧街道の要所に立つ城で、北条氏が永禄年間(1558~1570)の間に西方防衛の拠点として築城したとされる。本来ならば甲相駿三国同盟によって、武田北条今川は領国を接する所は安心できる場所となるが、永禄年間の駿河と相模と言えば、桶狭間の戦いで今川氏が織田信長に敗れ、今川が徳川や武田の侵攻を受ける混沌としている時期である。その時期に建てられたのは、北条氏の焦りがあったことに他ならない。
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私が最初に降り立ったのはバス停があった付近。当初駐車場が狭いと思っていたが、ほかに広い駐車場があることがこの地図からわかる。
さて、このバス停&休憩所を挟んで、山中城は大きく南北に分かれているのがわかる。主に生活拠点となっているのが南部であり、その平坦な場所を生かしていた立地である。それに対し、山という地形を生かして北部は防衛拠点となっている。
この山中城は、生活拠点と防衛拠点がわかている典型的な山城と言える。
ではまず生活拠点の南部から見ていく。
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写真をみたとおり、なだらかな丘陵となっている南部。「すり鉢曲輪」「御馬場跡」などがある。
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この写真を見ると土塁の形がよく見て取れる。三島市は1973(昭和48)年から全面発掘調査を行い、環境整備を行い史跡公園として公開している。そこで、北条末期の築城法が明らかになっている。
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これは南部の御馬場曲輪の北堀である。写真ではなかなか伝わらないが、生活拠点としてはなかなか高低差がある。私は最初このような土塁だけで喜んでいたが、もっと戦国山城の特徴を伝える整備がこの城ではされている。
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南部の生活拠点の先端であるすり鉢曲輪からバス停付近の垈先出丸に至るまで続く、「一の堀」。箱根旧街道からの進出を警戒しているのは明らかである。この150mほどの堀の中に、17ヶ所の畝がある。この畝堀の見ごたえは歴史好きには十分である
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すり鉢曲輪の先端には「見張台」があったようだ。箱根旧街道を監視していたのであろう。発掘調査の結果、「堀底から見張台まで八めm以上もあり、武具をつけた敵がよじのぼることは不可能な状況を呈していた。」という説明文があり、発掘調査がしっかり行われていることがわかる。
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土塁からみた「すり鉢曲輪」。かなりの大きさであり、国境を守備する武士たちの生活拠点となっていたのであろう。どんな建物が建っていたのであろうか。そのような発掘調査もあるだろうが、この山中城は資料館がないので、発掘調査は説明看板に頼らざるを得ないのが残念。
さて、山中城の南部の最後の写真。
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一見低い土塁が組まれているように見えるが、説明看板をみて納得。これは「構築途中の曲輪跡」であると言う。「尾根を削り成形しながらここに曲輪を構築すべく工事を急いだ様子がうかがわれ。しかし、時間的に間に合わず、そのまま工事の途中で戦闘に突入したのであろう。」発掘調査をこのようにしっかり行うと、遺構がない事もこのような事情だとわかる貴重な場所。永禄年間に作られた山中城。おそらく豊臣秀吉の侵攻に備えてもっと防備を強化しようと思ったのであろう。ここに文献的な歴史学と発掘調査結果がリンクしないとわからないことがある。
七尾城も早く発掘調査しないかな…。
後編では山中城の北部を見ていきましょう。