ぬえの能楽通信blog

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絢爛豪華な脇能『嵐山』(その2)

2008-07-29 09:22:44 | 能楽
舞台の中に向き合ったワキとワキツレは「次第」という三句からなる定型の謡を謡います。

ワキ、ワキツレ「吉野の花の種とりし。吉野の花の種とりし。嵐の山に急がん。

「次第」は「次第」または「真之次第」で登場した役者が必ず冒頭に謡う七・五文字の三句(曲により多少の字数の増減あり)の定型の謡です。このあとにすぐ地謡が同じ文句を低吟する「地トリ」が続きますが、「真之次第」で登場したワキの「次第」を受ける場合は、さらに「地トリ」のあとにワキが再び同じ文句を繰り返して謡います。これを「三遍返シ」と呼び、脇能では必ず演奏される演式であるほか、『道成寺』や『三輪』などの、シテが次第で登場する重い曲にさらに小書が付けられた場合にはシテの「次第」謡が三遍返シにされる事もあります。

三遍返シが終わったところでワキは正面に向き、自己紹介である「名宣リ」を謡います。

ワキ「そもそもこれは当今に仕へ奉る臣下なり。さても和州吉野の千本の桜は。聞しめし及ばれたる名花なれども。遠満十里の外なれば。花見の御幸かなひ給はず。さるにより千本の桜を嵐山に移しおかれて候間。此春の花を見て参れとの宣旨を蒙り。唯今嵐山へと急ぎ候。

名にし負う桜の名所の大和国・吉野の千本(ちもと)は遠方で、天皇が花見に出かけるわけには行かず、そのため千本の桜を京都の嵐山に植え移し、今は桜の季節なので、花の咲き具合を確かめに勅使を派遣した、ということですね。いや何とも泰平の時代をそのまま表したような平和な光景です。しかもその時代とは「当今」(とうぎん)つまり過去の時代を特定せず「現在」と言っているのです。

このへん、すでに『嵐山』という曲を読み解くキーワードかもしれません。『嵐山』の作者は金春禅鳳(1454-1532?)で、彼は禅竹の孫にあたります。彼の残した作品は『嵐山』のほか『一角仙人』『東方朔』(あ、これはどちらも昨年の狩野川薪能で上演した曲だ!)『生田敦盛』などで、同時代の役者としては彼の少し先輩で『玉井』『船弁慶』『紅葉狩』『羅生門』『張良』などを作った観世小次郎信光(1435-1516)がいます。作物を多用したり派手な演出の能を生み出した両巨頭がこの二人で、時代はまさに応仁の乱がようやく収まった頃、日本史の中でとらえれば織田信長が誕生する直前で、まさに戦国乱世に突入する前夜の不安定な時代だったのです。

すでに朝廷や貴族階級、そして足利幕府の権威は失墜、ロマンチックな複式夢幻能の世界に夢心地に身をゆだねるような時代ではありませんでした。能も芸の大衆化を図ったのかこの二人に代表されるショー的な能が生み出された時代で、天皇が花見の準備に嵐山に勅使を差し向けるような、そんな悠長な「当今」ではありませんでした。

そんな中で書かれた能『嵐山』でワキが言及する“泰平の御代”。現代でこそ長閑なワキの登場場面ですが、そこにはこの能にこめられた作者の祈りのような気持ちがあるのではないかと思います。「名宣リ」を謡い終えるとき、ワキは両手を胸の前で合わせる「立拝」とか「掻キ合セ」と呼ばれる定型の型をし、ワキとワキツレは再び向かい合って「道行」と呼ばれる小段を謡います。

ワキ、ワキツレ「都には。げにも嵐の山桜。げにも嵐の山桜。千本の種はこれぞとて。尋ねて今ぞ三吉野の。花は雲かと眺めける。その歌人の名残ぞと。よそ目になれば猶しもの。眺め妙なる景色かな。眺め妙なる景色かな。

「道行」は紀行文で、都、わけても御所を出発する勅使一行が嵐山に到着するまでが描かれます。現代でも京都駅から嵐山に至るのはやや距離を感じますが、当時は嵐山は都のそと。すぐそばにある嵯峨野は『平家物語』などでも人目を避けた人が隠遁生活を送るような片田舎でした。それでも、ほかの曲ではいろいろな歌枕となっている名所を過ぎながらワキ一行が次第に目的地に近づいてゆく様子が描かれるのに対して、さすがに『嵐山』の道行には都と嵐山との距離が比較的短いためか景物はほとんど描かれていませんね。

なお「花は雲かと。。」の文言について、桜の花 ~当時は背の低い山桜~が小山を埋めつくして群生している様子を遠山にかかる雲や春霞に見立てるのは、和歌世界では伝統的な手法で、古くは『古今集』の「仮名序」に「秋のゆふべ、龍田川に流るる紅葉をば、帝の御目には錦と見たまひ、春のあした、吉野の山の桜は、人麻呂が心には雲かとのみなむおぼえける」と見えます。もっとも実際には柿本人麻呂に吉野の山の桜を詠んだ歌は存在せず、『万葉集』には桜の歌はほとんど見出せません。桜は日本人とは切っても切り離せず、古典文学でも「花」という場合は基本的には「桜」を指しているのですが、それは『古今集』時代からの事だったりするんですね。和歌からはとくに多大な影響を受けている能の詞章の中には 花を雲に見立てる表現はかなり多く登場しておりますけれども。

「道行」の終わりの方でワキは正面に向き、3~4足出てくるりと後ろに向き、また数歩歩んで元の位置に戻ります。この型で彼が旅をしたことを意味し、舞台は都から嵐山へと移ったことになります。

ワキ「急ぎ候程に。これははや嵐山に着きて候。心静かに花を眺めうずるにて候。

正面に向いたワキは嵐山に到着した事を宣言し、しばらく花を眺めることにします。ワキツレも同意し、一同は脇座に着座し、いよいよ前シテの登場となります。