あ~、もう東京に帰って来ましたのに ご報告が遅くなってしまいました。東北の小中学校巡回公演のその後。
でもその前に、先日最後に書き込みをした自分のブログの記事が中尊寺拝観のことでしたので、その時に書き落としたことを少し言いたいと思います。
じつは、中尊寺では文化財の修復、という点にとても印象を強く持った ぬえなのでありました。
中尊寺の金色堂の隣りに、宝物館というべき施設、讃衡蔵(さんこうぞう)があります。平成12年に新築されたコンクリート造りの建物の中には、入館してまず目に飛び込んでくる3m近い身長の3体の阿弥陀如来、薬師如来座像をはじめ、かつて金色堂の内部を飾っていた旧蔵品の荘厳の品々(すべて国宝に指定)などが保存展示されています。
ところがその展示の最後に、かつてNHKで放映されたらしいテレビ番組の録画がビデオ上映されていまして、この金色堂も一時は荒廃していた様子がわかります。堂内のきらびやかな柱も螺鈿が剥落して痛ましいほどのありさま。なるほど現在の金色堂は昭和の大修理を経て往時の輝きを取り戻したのですね。
考えるのですが、大正から昭和という時代は、日本の文化財の転換点でありましたね。文化そのものの転換点はもう少し前の明治維新にありましたが。明治に日本は王政復古の号令を受けて、たとえば城郭の取り壊しが行われたり、武家の文化が一気に廃れました。能楽も大打撃を受けたのはこの時代で、能楽師は家禄を失って生活が困窮し、能面や装束が散逸したり、海外に流出したのもこの時期ですね。。明治維新に引き続いて廃仏毀釈運動が起こって、多くの寺院や仏像が破壊されました。ぬえが以前訪れた例では、能『桜川』の舞台になった茨城県の磯部寺は、現在では磯部神社だけが残り、神仏混淆で社域に建てられていたお寺の方は礎石を残すのみで完全に失われていました。これは明治時代に取り壊されたものだそうです。さらに文明開化の風潮の中で多くの文化財が破壊されたり、海外に流出したのもこの時代。。
その後 能の方は、明治9年に岩倉具視邸で天覧能が催され、11年には初の能楽堂が青山御所に建設されて復興することができましたが、それまでに能の多くの名家が廃絶しています。廃仏毀釈運動の方も、約10年後には信教の自由が保障されましたが、それまでに失われた仏像や仏堂は数知れず。。お城にいたっては、取り壊しを免れた天守閣はほとんど現在では国宝に指定されているのに、当時は廃屋同然の状態で、かろうじてそこに残されているだけの状態でした。琵琶湖のほとりに建つ彦根城(国宝)は井伊家の居城でしたが、現地の方に伺った話では往時は売却の憂き目に遭っていたそうです。それでも買い手が着かず、ついには銭湯の薪として売られそうになったとか。。
それぐらい、歴史を経てきたものであっても失われるのは簡単な事なのです。こういう仕事をしていると、現代でも失われていくものをたくさん目にするので、なおさら想いは強いですね~。だから数年前に京都・大原の寂光院が焼失したのは本当に驚いたし、それが放火が原因らしい、と報道されたときは ぬえは怒りのあまり逆上してしまった。それでも。。今年の2月に韓国・ソウルの南大門が焼失し、これも放火が原因ではないかという疑いが。。(・_・、)
ところが、日本では近代になってから多くの遺された文化財が修復を受けていて、それが現在にまで繋がって修復作業が続けられています。その出発点であるのが大正時代と昭和前期で、これがまた気になる時代なんですよね~(続く)
でもその前に、先日最後に書き込みをした自分のブログの記事が中尊寺拝観のことでしたので、その時に書き落としたことを少し言いたいと思います。
じつは、中尊寺では文化財の修復、という点にとても印象を強く持った ぬえなのでありました。
中尊寺の金色堂の隣りに、宝物館というべき施設、讃衡蔵(さんこうぞう)があります。平成12年に新築されたコンクリート造りの建物の中には、入館してまず目に飛び込んでくる3m近い身長の3体の阿弥陀如来、薬師如来座像をはじめ、かつて金色堂の内部を飾っていた旧蔵品の荘厳の品々(すべて国宝に指定)などが保存展示されています。
ところがその展示の最後に、かつてNHKで放映されたらしいテレビ番組の録画がビデオ上映されていまして、この金色堂も一時は荒廃していた様子がわかります。堂内のきらびやかな柱も螺鈿が剥落して痛ましいほどのありさま。なるほど現在の金色堂は昭和の大修理を経て往時の輝きを取り戻したのですね。
考えるのですが、大正から昭和という時代は、日本の文化財の転換点でありましたね。文化そのものの転換点はもう少し前の明治維新にありましたが。明治に日本は王政復古の号令を受けて、たとえば城郭の取り壊しが行われたり、武家の文化が一気に廃れました。能楽も大打撃を受けたのはこの時代で、能楽師は家禄を失って生活が困窮し、能面や装束が散逸したり、海外に流出したのもこの時期ですね。。明治維新に引き続いて廃仏毀釈運動が起こって、多くの寺院や仏像が破壊されました。ぬえが以前訪れた例では、能『桜川』の舞台になった茨城県の磯部寺は、現在では磯部神社だけが残り、神仏混淆で社域に建てられていたお寺の方は礎石を残すのみで完全に失われていました。これは明治時代に取り壊されたものだそうです。さらに文明開化の風潮の中で多くの文化財が破壊されたり、海外に流出したのもこの時代。。
その後 能の方は、明治9年に岩倉具視邸で天覧能が催され、11年には初の能楽堂が青山御所に建設されて復興することができましたが、それまでに能の多くの名家が廃絶しています。廃仏毀釈運動の方も、約10年後には信教の自由が保障されましたが、それまでに失われた仏像や仏堂は数知れず。。お城にいたっては、取り壊しを免れた天守閣はほとんど現在では国宝に指定されているのに、当時は廃屋同然の状態で、かろうじてそこに残されているだけの状態でした。琵琶湖のほとりに建つ彦根城(国宝)は井伊家の居城でしたが、現地の方に伺った話では往時は売却の憂き目に遭っていたそうです。それでも買い手が着かず、ついには銭湯の薪として売られそうになったとか。。
それぐらい、歴史を経てきたものであっても失われるのは簡単な事なのです。こういう仕事をしていると、現代でも失われていくものをたくさん目にするので、なおさら想いは強いですね~。だから数年前に京都・大原の寂光院が焼失したのは本当に驚いたし、それが放火が原因らしい、と報道されたときは ぬえは怒りのあまり逆上してしまった。それでも。。今年の2月に韓国・ソウルの南大門が焼失し、これも放火が原因ではないかという疑いが。。(・_・、)
ところが、日本では近代になってから多くの遺された文化財が修復を受けていて、それが現在にまで繋がって修復作業が続けられています。その出発点であるのが大正時代と昭和前期で、これがまた気になる時代なんですよね~(続く)