ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第16次支援活動<気仙沼市・登米市>(その3)

2013-10-05 04:19:42 | 能楽の心と癒しプロジェクト
小野寺由美子さんには、この活動のあとマルシェに寄ってご挨拶しようと思ったのですが、お店がお休みでお会いすることができず。。そのまま10月の今日を迎えてしまいました。まあ。。今月も来月も気仙沼には何度か滞在したり通過する機会がありますのでお会いできる日もあるでしょう。

さて最初の活動地「鹿折中学校住宅」に到着しました。わかるかしら。ここでもやはり、中学校の校庭の半分を舗装して、住宅と駐車場に宛てられています。震災直後の避難所も、またその後建設された仮設住宅も公立学校に多く作られるのは、当然そこが公立の公共施設で、災害時に自治体の判断で使用目的を変更するのが容易であるからですが、それが子どもたちが通う小中学校であるとき、痛ましさを感じますね。。

ぬえは多くその事例を石巻で実見しました。避難所時代には、被災しなかった学校には避難所が設けられ、さらに学校そのものが壊滅した被災地域の児童・生徒のための「仮設学校」が同じ学校内に間借りして教室を開いたり。こうなると学校の敷地が足りなくなって、間借りしている小学校の児童は、校庭がふさがっている時は、近所の公園で体育の授業をしていたり。。一方避難所を解消しようと行政は仮設住宅を次々に建設しましたが、避難所の住民さんにとって引っ越しの手段や経済的な負担をどうするのかという問題に直面したり、いやその前に避難所の解消の期限は震災から半年を経ていて、避難所で培われたコミュニティを分断するような、抽選による住居の指定がなされたり、ましてその結果、車も持っていない高齢の住民さんに割り当てられた仮設住宅が、付近に商店もない山間の数軒だけしかない仮設住宅だったり。。「こんなところでは私は生きていけない」と嘆く住民さんに寄り添って、ときには拒否まで勧めたボランティアさん。それが原因となってささやかれる「学校が再開できないのは避難者が居座っているからだ」という心ない声。。いま考えれば、震災の年の10月。。あの避難所の解消までがある意味で震災後の「混乱期」と呼ぶべき状態だったのではないかと思います。

ともあれ鹿折中の校庭に建てられた仮設住宅に到着しました。掲示板にはちゃんとチラシを貼ってくださっていてありがたや~。



上演会場となる集会所もすぐに見つかり、早速 自治会長さんにご挨拶させて頂き、上演の準備を始めさせて頂きました。この日到着する予定の太鼓のOさんも、ほどなく到着。仮設住宅での活動で囃子方が2名も参加して頂くのはあまり例がなく、それならば、というので上演後の体験コーナーも囃子体験を充実させることにしまして、Oさんもわざわざ体験用の鼓や太鼓を何調もご用意してくださいました。







なんか ぬえも楽しそう。



そうして上演の時間が迫ってきまして、ぬえも装束を着て準備。大概の装束はもう自分一人で着れるようになりましたが、やっぱり無理なところもあって、そこはお囃子方である笛のTさんにお手伝い願ったりしています。東京でそんなことはあり得ない訳ですが、被災地では仕方がない。Tさんも、もう ぬえの着付けを手伝わされる経験は2年以上ですから、もう手慣れたもの。おっと、太鼓のOさんは天冠が珍しいみたい~ 能の世界は完全分業制ですから、同じ能楽師といってもお囃子方がシテ方の道具類を身近に見る機会は、ほとんどないのです。それが着付けの手伝いまでさせられる。。すみません~~



やがてお客さまも見えて上演が近づきます~。

こうして朝から能!。。『羽衣』を上演させて頂きました。









「国土にこれを施し給ふ」の型では思い切ってお客さまの方まで出る。。いつも機会があればそうしているのですが、この日は座布団の感触が膝に伝わって「?」とは思いましたが。。お客さまのすぐそばに行けたとはいえ、なんか変な格好だなあ。。