松江市内のある学校の管理職の先生が、「松江市は一層学力向上に力を入れようとしている。学校の図書購入費などはもっと削減される方向だろうと思う」と仰っていたとか。
松江市では学力テストの学校ごとの結果公表に踏み切ったのは周知のことですが、それでも、効果が現れない、学力向上がママならないことに、教委のトップは焦燥感さえ感じているのだろうか?いや、感じるんだろうなあ。学力公表に踏み切る思考回路だから。
そこで、学力観を考える意味で、資料購入費を減らそうとすることに関連して、もう一度、鎌田先生から聞いた「村を育てる学力」と「村を捨てる学力」について、触れることにしたいと思います。
しばらくは、他サイトの紹介になるので、最初にそのサイトにリンクを張り(今、改めて問われる「村を捨てる学力」と「村を育てる学力」―資料紹介―)、引用部分は文字色を変えることにします。
まず、「村を育てる学力」と「村を捨てる学力」の出典は、東井義雄(1912年~1991年)の『村を育てる学力』(明治図書、1957年)です。東井は、1950年代に「村」と「学力」の問題に焦点をあて、「生活綴方教育」の実践者(「綴方教師」)として高い評価を受けた一人です。とのこと。
1950年代に、このことに言及された東井先生の達観は、正直凄いと思います。
サイトに紹介された『村を育てる学力』の中から、特に2か所だけ紹介させていただきます。
進学指導・就職指導によって、たしかに村の子どもの学力は伸びるだろう。農村人口の都市へ移行も必然的な動向であろう。しかし、村の子どもが、村には見切りをつけて、都市の空に希望を描いて学ぶ、というのでは、あまりにみじめすぎる、と思うのだ。そういう学習も成り立つではあろうが、それによって育てられる学力は、出発点からして「村を捨てる学力」になってしまうではないか。
……「村を捨てる」立場から育てられた「主体性」が、「村を捨てる学力」を形成していくことは必然だが、……
この行き方に欠除しているものは「土」への「愛」である。「村」は、愛することもできないほど、暗く、貧しい。しかし、それがそうであればあるほど、それは、何とかせねばならぬ。「愛」が注がれねばならぬ。このような村をも愛することができるなら、この貧しい「国土」をも愛してくれるだろう。そして、そのことの中に、「生きがい」を見つけてくれるようにもなるだろう。たとい、村を出ていくことになっても、行ったところで、生きがいを切りひらいていってくれるだろう。
そして、そのような立場からの学習が、私は可能だと思う。客観的、普遍的な学問の価値が、そのような立場から消化されたら、どんなにすばらしいことだろう。
東井先生は、「綴り方」によって「村を育てる学力」を涵養されようとしました。
今、文科省は教育のゴールとして、「キー・コンピテンシー」を21世紀型能力として位置付けています。それは、実は文科省が看板を掲げ続けている「生きる力」。
その学力観に基づいた個々の力の涵養方法として「アクティブラーニング」が推奨され、義務教育にも取り入れようとされています。その一番のカギは思考力なんですね。それは、実践力に繋がる。
その思考力、敷衍する判断力、表現力は、今の学習指導要領の要。その力の涵養のため、学校図書館が位置付けられ、その活用が教科書の随所に表記されている。
であるのに、、、指導要領に位置付けられた学校図書館機能の弱体化につながる、というか、今でさえ、資料不足に四苦八苦する学校現場をさらに窮地に追い込む資料費削減?
その管理職の見方が正しいとすれば、まさに「村を捨てる学力」を松江市は目指しているとしか思えないし、更に言えば、本当に、企業や社会が希求する若者の「生きる力」を義務教育段階で涵養しようとしているのか?と思わざるを得ません。
松江市教委は、もっともらしい常識に迎合するのではなく、真の学力とはと正面から問い、保護者や市民と真摯に向き合うべきではないでしょうか。聞いた話が正しければですが。