昨日の地元紙に、僕の好きな政治学者・姜尚中氏が松下政経塾について書いていました。
僕は、とても共感しながら読みました。
それは、僕が議員をやめたのは、党の定年制があったお陰なんですが、やめれたことを心から感謝しました。その理由とも重なるところがあるかもしれません。
僕は、とても共感しながら読みました。
それは、僕が議員をやめたのは、党の定年制があったお陰なんですが、やめれたことを心から感謝しました。その理由とも重なるところがあるかもしれません。
所詮は人間
共感して読んだ理由ですが、僕も何人かの政経塾出身の方とご縁を持つことがありましたが、それぞれなんですね。
何だ、松下政経塾出身と言ったって、所詮は人間だし、政経塾出身だから人間的にも、政策的にも心から尊敬できる、というものではない、って思ったんですね。
何だ、松下政経塾出身と言ったって、所詮は人間だし、政経塾出身だから人間的にも、政策的にも心から尊敬できる、というものではない、って思ったんですね。
姜尚中氏は、「経営と国家は、果たして融合可能なのか。政治と倫理は宥和可能なのか。理想と権力は和解可能なのか。実利的な功利主義と国家運営の理想、そしてそれにまつわる権力主義は、時には融和するにしても、時には激しい緊張関係にあるはずだ。その緊張に耐えながら、にもかかわらず、硬い板に錐で穴を開けていくような、力強い政治家の営みは、研修や研究を積み重ねていけば、体得できるものなのか。」とコラムの最後に書いています。
「塾出身の政治家が顔を揃えた旧民主党政権への過剰な期待と失望」が、塾を激しい毀誉褒貶にさらしているとも書いています。
今、堤未果著「政府は必ず嘘をつく」を読んでいます。凄い内容なので、よくぞここまで書いたなあ、と思いますが、政治の場にいた僕は、相当部分は事実だろうと思います。
米国は、既にグローバル企業の意のままに動く傀儡政権のようになっているという趣旨のことが書かれています。象徴的な出来事はイラクであり、リビアであり、シリアなんですね。
それほど、現代の政治を取り巻く環境は政治家を身動きできなくしているという事実。それは、何も米国だけのことではなく日本もそう。象徴は、福島原発の対応をした民主党政権かもしれません。
それを見ていると、いったい誰が、住民のための意識を持ちえたのかって。
311の年の6月初めから畑を借りました。最初に蒔いたのは大豆。双葉が出たときには物凄く感動しましたが、同時に、国会議員には農業をして欲しいと思いました。それは、命の感動を持って欲しいと思ったから。
誰がやっても一緒だ!
あの時の状況を振り返ってみて、いったいどの国会議員だったら違った対応ができただろうと思いました。
国会議員を責める気にはなりません。それだけ、取り巻く環境は容易ならざるものなんだよなと思っています。国民は、そんなことを感覚的に感じているんでしょうね。だから、政治への期待は限りなくゼロに近い。
誰がやっても一緒だと。きっと、米国では、クリントンだろうがトランプだろうが、所詮は一緒にならざるを得ないんだろうという諦観のようなものがあります。寂しいですが、、、
そこを打ち破る政治家、それは、研修や研究を積み重ねたから生まれる、ちょっと違うんじゃないか、そんなことを思うんですね。
姜尚中氏は、「選ばれし者」という選良意識が肥大化するだけとしたら、と懸念を持っているようです。
この懸念は、僕も払拭できません。が、それに代わるものを口にすることは難しそうです。
次代を悲観していません
何を戯言書いてるんだ、というようなご批判があるだろうことを承知で、相当思い切って書きました。きっと、口に出したくても出しにくい議員の皆さんもいらっしゃるんだろうなあと。
ただ、僕は次代を悲観して見ているわけではありません。若者たちは、時代を大きく変えるエネルギーを持っていると感じています。本当に眩しい存在です。
それを、ちょっとでも支え、サポートできたら、こんな素晴らしい人生はないだろうって。
夜、出雲で10月8日に予定している「クスリの講演会」の打合せ会がありました。
出雲への道中、俗に言われる“天国への階段”、素晴らしい薄明照射が付き添ってくれました。
きっと、僕の役割や行動の後押しをしてくれているんだろうと思いました。おめでたいですが(^^;;
今、堤未果著「政府は必ず嘘をつく」を読んでいます。凄い内容なので、よくぞここまで書いたなあ、と思いますが、政治の場にいた僕は、相当部分は事実だろうと思います。
米国は、既にグローバル企業の意のままに動く傀儡政権のようになっているという趣旨のことが書かれています。象徴的な出来事はイラクであり、リビアであり、シリアなんですね。
それほど、現代の政治を取り巻く環境は政治家を身動きできなくしているという事実。それは、何も米国だけのことではなく日本もそう。象徴は、福島原発の対応をした民主党政権かもしれません。
それを見ていると、いったい誰が、住民のための意識を持ちえたのかって。
311の年の6月初めから畑を借りました。最初に蒔いたのは大豆。双葉が出たときには物凄く感動しましたが、同時に、国会議員には農業をして欲しいと思いました。それは、命の感動を持って欲しいと思ったから。
誰がやっても一緒だ!
あの時の状況を振り返ってみて、いったいどの国会議員だったら違った対応ができただろうと思いました。
国会議員を責める気にはなりません。それだけ、取り巻く環境は容易ならざるものなんだよなと思っています。国民は、そんなことを感覚的に感じているんでしょうね。だから、政治への期待は限りなくゼロに近い。
誰がやっても一緒だと。きっと、米国では、クリントンだろうがトランプだろうが、所詮は一緒にならざるを得ないんだろうという諦観のようなものがあります。寂しいですが、、、
そこを打ち破る政治家、それは、研修や研究を積み重ねたから生まれる、ちょっと違うんじゃないか、そんなことを思うんですね。
姜尚中氏は、「選ばれし者」という選良意識が肥大化するだけとしたら、と懸念を持っているようです。
この懸念は、僕も払拭できません。が、それに代わるものを口にすることは難しそうです。
次代を悲観していません
何を戯言書いてるんだ、というようなご批判があるだろうことを承知で、相当思い切って書きました。きっと、口に出したくても出しにくい議員の皆さんもいらっしゃるんだろうなあと。
ただ、僕は次代を悲観して見ているわけではありません。若者たちは、時代を大きく変えるエネルギーを持っていると感じています。本当に眩しい存在です。
それを、ちょっとでも支え、サポートできたら、こんな素晴らしい人生はないだろうって。
夜、出雲で10月8日に予定している「クスリの講演会」の打合せ会がありました。
出雲への道中、俗に言われる“天国への階段”、素晴らしい薄明照射が付き添ってくれました。
きっと、僕の役割や行動の後押しをしてくれているんだろうと思いました。おめでたいですが(^^;;