面白い方があるもので、人が羨むような最先端の仕事を凄腕でこなしながらさっさと辞める。
やりたかったからと絵描き人生を志して、尋ねた先生は穴の開いた靴を履き、住まいはあばら家、雪が降ればトイレやお風呂に雪が積もるような、誰が見ても落ちぶれ果てた生活をしている。
師事を決めて頼むと、一切の交友関係を断てとの無理難題とも思える要求に唯々諾々と応じる。
そんなところに踏み出す生き方って、、、ある意味凄すぎかも。
人の弟子になれる能力、そうか、それって習い事の究極かも~~!
弟子になる、普通は付き従おうと思う師匠を選びますよね、何を基準に?
習う、学ぶ方って、習おうとすることを全く知らないんだから、本来師の選びようがない。
絵描き人生を志した方、きっかけは何だったのでしょうね、誰が考えても普通じゃない師を選んだ。
でも、この師はただならぬ方だっただけでなく、人生の最良のパートナーとなり、あり得ないような経験をさせてもらう。
「生きる力」とは
内田樹は「街場の戦争論」の中で、弟子になれる能力について書いていますが、学びの神髄って、内田先生の論に尽きるように思えて仕方ありません。
内田先生は、合気道の師・多田宏先生との出会いをすばらしい「武運」だったと書いています。
武道が最終的に求めている境地は「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ことにつくされ、そのほとんどは自己決定できるものではない。たまたま出かけたところで、会うべき人に会い、なすべきことを教えられる。それこそが「生きる力」であると多田先生は教えておられると。
武道家の天才性は、人体能力が卓越していることよりも、会うべき人に、会うべき時に会える能力に潜んでいると思えると書かれていますが、人の人生もまた、その通りだろうと思えてなりません。
人智、ある意味そうたいしたものではない、自然界や宇宙のリズム(言い方はさまざまかな?)や見えないものを身体で観じて、同期できる能力、それが生きる幅広さや深み、「生きる力」なのかなあ、そんなことを感じています。
習い事、特に、わが国で伝えられてきた“道”の事って、そういうことを体感・体得するためなのかなあ。
学校の学びもその延長にあって欲しいものだなあ、そんなことを夢想しながら、絵描き人生を歩む方のお話を聞かせて頂きました。