上天気になってきた。万物が日を浴びて、すっかり春めいてきた。着ている冬着を一枚また一枚脱ぎたくなる。梅ももう終わりか。花弁が散りかけている。代わりに彼岸桜が咲きかけた。新たに白木蓮の蕾も色をつけだした。
母の逮夜(たいや)も終わった。聴聞衆は子孫8人だった。お坊さん(弟)に正信偈を読経してもらった。わたしも唱和した。正信偈は「帰命無量寿如来 南無不可思議光・・・」で始まる。帰命も南無も同じで「お信(まか)せをして、帰依をします」ということだ。無量寿如来と不可思議光はともに阿弥陀仏のことである。
帰依をしているのなら、阿弥陀仏がさぶろうを救済することを疑ってはならないが、しかし、何度も何度も疑ってしまう。疑ったら救済をしないか。そんなことはない。阿弥陀仏の救済は無条件である。信じる者、疑う者、帰依する者、帰依しない者をも救済する。こちらがそれを自覚するかしないかだけである。
お坊さんは読経の後で、歎異抄第2節と蓮如上人の御文章聖人一流の章、ならびに鈴木大拙博士の「真宗入門」日本語訳よりその一部を読み上げた。こころに残っている部分をここに挙げておく。
「・・・一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定(じじょう)したまふ・・・」これは御文章の一節である。わたしの往生は、わたしが決めるのではなく、仏さまが決められることである。これが他力信心である。
ただし、「阿弥陀仏に帰命すれば」という条件が付いている。帰命せしめて下さるのも、しかし、阿弥陀さまのお仕事である。疑い心の強いさぶろうには、素直に帰命することができないからである。そんなことくらい疾うにお見通しだったので、さぶろうの思議を超えた誓願を立てられたのであった。