<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

さぶろうの思議の範疇を遙かに超えている誓願

2015年03月14日 13時56分32秒 | Weblog

上天気になってきた。万物が日を浴びて、すっかり春めいてきた。着ている冬着を一枚また一枚脱ぎたくなる。梅ももう終わりか。花弁が散りかけている。代わりに彼岸桜が咲きかけた。新たに白木蓮の蕾も色をつけだした。

母の逮夜(たいや)も終わった。聴聞衆は子孫8人だった。お坊さん(弟)に正信偈を読経してもらった。わたしも唱和した。正信偈は「帰命無量寿如来 南無不可思議光・・・」で始まる。帰命も南無も同じで「お信(まか)せをして、帰依をします」ということだ。無量寿如来と不可思議光はともに阿弥陀仏のことである。

帰依をしているのなら、阿弥陀仏がさぶろうを救済することを疑ってはならないが、しかし、何度も何度も疑ってしまう。疑ったら救済をしないか。そんなことはない。阿弥陀仏の救済は無条件である。信じる者、疑う者、帰依する者、帰依しない者をも救済する。こちらがそれを自覚するかしないかだけである。

お坊さんは読経の後で、歎異抄第2節と蓮如上人の御文章聖人一流の章、ならびに鈴木大拙博士の「真宗入門」日本語訳よりその一部を読み上げた。こころに残っている部分をここに挙げておく。

「・・・一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定(じじょう)したまふ・・・」これは御文章の一節である。わたしの往生は、わたしが決めるのではなく、仏さまが決められることである。これが他力信心である。

ただし、「阿弥陀仏に帰命すれば」という条件が付いている。帰命せしめて下さるのも、しかし、阿弥陀さまのお仕事である。疑い心の強いさぶろうには、素直に帰命することができないからである。そんなことくらい疾うにお見通しだったので、さぶろうの思議を超えた誓願を立てられたのであった。

 

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永遠の命を得た者、無限の空間を自在にした者

2015年03月14日 08時24分53秒 | Weblog

母の命日に因んで母を思う。肉体を死んだ母はその後をどう生きているか。肉体を死んだということは物質世界の束縛を離れたということである。非物質世界は霊界である。スピリチュアル・ワールド、仏界である。真如界・法界である。此処へ往生をして仏と成っている。これが阿弥陀仏の救済事業の内容である。その誓願が成ったので法蔵菩薩は阿弥陀如来と成られたのだ。

往生成仏が浄土教の教えるところである。往生とは、阿弥陀仏が建設された極楽浄土に往きてそこで新しく生まれることだ。肉体の死をすませた者は、仏心仏身としての新しい生のステージへと移行するのである。成仏とは仏と成るということだ。仏のお命と一つになってしまう。仏と成った母は仏界の歓喜にむせんでいるだろう。もちろん父も同じだ。死者はすべからくだ。苦しんではいない。迷いはなくなっている。ここは無限の光と智慧と安心の世界である。

1,往生成仏の極楽世界は無量寿であって、無量光の世界である。

2,無量寿とは永遠の命、永遠の現在を得たということだし、無量光は無限の空間を自在にしたということだ。死者はそういう仏智に安んじている。

3,母は成仏して仏と成った身である。此処人間界への行き来も朝飯前、簡単にできるはずである。

4,廻向とは回し向けるということだ。こちらから死者の世界へ親愛の思いを向けることだが、あちらからこちらへの廻向の方が大量である。

5,命日のお逮夜は母を廻向し母を供養する行事なのだが、その実は母がわたしたちへ仏界の智慧を廻向供養しているのかもしれない。

6,死ぬということはどういうことか、死んだ後をどう生きているのか、そこに至るまでに何を学んでおけばいいか、どういう安心を得ておくべきか。死者(この世の肉体の死者。あの世の生者)はわれわれ生きている者に伝達講習をする役目がある。

7,永遠の現在を生きている者、無限の空間を自在にした者は、仏と同じ智慧と慈悲を生きて活発に活動をしている。

8,さぶろうよ、安心をするがいい。安心をしてこの世を生きるがいい。安心して肉体を死ぬがいい。安心して仏界へ渡ってくるがいい。仏のエネルギー体は凄いぞ。新しい生命の活動がさぶろうを待っているぞ。

9,母は迷ってなんかいない。安心するがいい。エターナル・ライフ(永生)に生きて燦然と耀いている。

10,読経する仏典はさぶろうの「大死一番」「大生命の爆発」のためである。

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今日は母の命日

2015年03月14日 08時22分06秒 | Weblog

今日は母の命日にあたるので、午前中に母を偲んでお逮夜をする。お坊さんを呼んできて読経をしてもらう。本来は近隣の人たちを招いて、夜にする。ちょっとしたお膳を添えるが、面倒だから招くのは止めにした。その代わり近隣にだけ配り物を届ける。これが母の功徳廻向(えこう)になる。風習としてこれがまだ田舎では続いている。

お坊さんはわたしの弟である。退職をした後で、仏教学を学びに行って、浄土真宗のお坊さんの資格をとっている。坊さんだがお寺には住んでいない。僧衣を着込んで彼は仏壇の前で正信偈を読経する。母も実の息子から供養をしてもらうのだから喜んでいるはずである。

死んだ母は阿弥陀さまの約束通り極楽浄土で往生成仏をすませているから、何も今更人間界で供養だとか廻向だとかしなくてもいいのだが、中国を経由して渡ってきた日本仏教は儒教の影響を色濃く受けていて、死後もこういった行事をして親孝行をするようになっているようだ。

 

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啓蟄間近

2015年03月14日 07時19分08秒 | Weblog

空は乳白色。春の雨に煙っている。一雨ごとに寒さが緩んでいくようだ。小葱の緑が張りと艶を増して行く。

昨日は畑の草取りをしている時に冬眠中の蛙さんを掘り上げてしまった。身体全体皺皺になっていて、いかにも眠そうな目をしていた。「ごめんごめん」を言いながらまた土の中に帰して遣った。風邪でも引かねばよかったけれど。ま、もうすぐだろう、土から這い出てくるときは。

 

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