こんばんは。ああ、楽しかった。陽春のぽかぽか陽光を浴びているだけでとろりとろりなのに、それにかてて加えて、さぶろうは庭に出て好きな土いじりをして過ごした。お風呂用の丸椅子に座ってゆっくりゆっくり。午前中いっぱいね。透かし百合やテッポウユリ系列の球根を、土を深めに掘って植え付けていった。百合は球根の3倍から4倍ほどの深さに埋める。油粕の固形肥料をたくさん施肥してあげた。ああ、楽しかった。楽しみ方って人それぞれでたくさんたくさんあるだろうけど、さぶろうの味わった楽しさも相当なもんだった。これは人と比較はできない。比較するもんではない。各自がふっふっふしていればそれでいい。
三界。さんがい。三つの世界。三つの境涯。それぞれの境涯で3通りの生き方をする世界。今日ただいまの生き様を異にすれば行き来は自由だ。三界は俯瞰すれば一界でもある。
さぶろうは365日、それも朝から晩まで終日、欲界にいて右往左往しているので、いささかもう飽きが来ている。今日は色界までピクニックができないかなあ。絶食をしないといけないかなあ。これはまあできるが、絶本能欲となると難しいなあ。
(色界は色事の界ではないから、花見の下の美しい女性を見ても淫欲は湧かないので、そわそわしないでいられる分、楽だろうなあ)(わはは、さぶろうは小ネズミのようにいつもそわそわうろちょろしているからなあ)
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淫欲と食欲から脱却できない欲界。この自己保存の欲から離れて他者の幸福に目が向くのが色界。でもまだ物質界で、形・色にとらわれる束縛が残る。無色界は形・色の束縛を離れた融通無碍、唯心識の世界。でもまだ生死を繰り返す。三界を超えて出るとそこに仏界が出現する。ここではもはや生死も生死の憂いも恐怖もなくなって、永遠の命・仏陀の命を生き通しに生きている。
永遠の命は生死をしない命である。生死の恐怖や憂いに絡め取られていないでいい。生死するのは物質世界の肉体である。恐怖も憂いもこれをわたしとしているからである。わたしの総体としているからである。わたしの本質(わたしの主体者)はもともとは永遠の命であるが、ほんの一時期、桜の花の美しい物質界まで遠足に出て来ているのだ。月に帰って行くかぐや姫みたいだね。
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あんまり月も桜の花も美しいので(それに加えてメッチェンがこれまた美しいから)遠足から帰りづらくなっているらしいのだ。それで<肉体こそは我なり>を主張する余り恐怖心を抱いてしまったようなのだ。ふふふ、こりゃお粗末な結末だね。
障子戸の向こううっすらと夜が明けてきました。(わたしの部屋は和室なのでカーテンがありません)。今日の楽しみがスタートします。雨音はしません。室内でもいささか肌寒いので、鼻水が垂れてきます。ちゃんちゃんこを着込みました。ヘッドフォンを付けていつものようにまずはモーツアルト名曲集を聴いています。これですっかりいい気持ちになります。
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三界は安きことなし。猶、火宅の如し。衆苦は充満して、甚だ怖畏すべし。常に生老病死の憂患(うげん)有り。是(かく)の如きらの火、し然として息(や)まず。如来は已に三界の火宅を離れて、寂然として閑居(げんご)し、林野に安処(あんじょ)せり。今、此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ我が子なり。而(しか)るに今此の処は諸の患難(げんなん)多し。唯我一人のみ能く救護(くご)を為す。我は化の四衆、比丘比丘尼、及び清信(しょうしん)士女(じにょ)を遣わし、法師を供養せしめて、諸の衆生を引導せしめ、之を集めて法を聴かしめん。 妙法蓮華経より
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今朝は法華経を読みます。お釈迦様に会える楽しみがあります。お釈迦様の声を聞く楽しみがあります。
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三界とは一切衆生が生死輪廻する3種類の世界、欲界、色界、無色界のこと。三界火宅の熟語がある。火宅は火災が起きている家、火事の現場。熱い熱い苦しい苦しいと逃げ回っているしかありません。
さぶろうは、生き物の本能の淫欲と食欲と物欲の火の燃え盛る欲界のど真ん中に暮らしています。ここでは生きたり死んだりする肉体を修行の武具として借りています。何の修行をするか。生老病死を体現して苦行をします。苦行をしてどうするか。襲いかかるさまざまな怖畏(=恐怖)を離れます。離れてどうするか。信仰をいただいて開悟徹底します。ここで他力の大安心を獲得します。大安心の信心はどうして頂戴するか。仏陀が遣わしたさまざまな人や、人の引き起こすさまざまな出来事から、仏法(仏界の法則・貫いているエネルギー体のダンマ・真如真理)を聴聞します。「三界は我が有なり、三界に住む者はみな我が子なり」の救済にあずかると、さぶろうは三界を離れます。三界を離れてどうするか。仏界を呼吸します。そこでどうするか。仏陀となって活動します。ここがゴールです。
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このストーリーが出来上がっていますから安心ですよね。でも、安心がしょっちゅう崩れます。跡形もなくなってしまいます。ほにゃらほにゃらの海の泡になります。泡になってまた妙法蓮華経を開きます。開いてどうするか。我が身を憂いてはらはら涙を流します。桜の花の、散る花びらのようにはらはらとはらはらと涙を流します。
おはようございます。寝厭きてしまいましたので、ごそごそ起き出してきました。夜はまだ明けていません。
昨日も日が暮れてしまうまで外に居て草取りを続けていました。次の場所へ次の場所へという具合に草が生えたところへ回って行くのですが、追いつきません。わたしの作業量が高が知れているからです。それと草の生長が旺盛なのです。
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第三詩集を出版したいと思い続けていますがなかなか実現しません。第二詩集出版からもうずいぶんずいぶん経ちました。決断ができないでいます。費用もたくさんかかります。そうやって重い負担をしても、わたしが書く仏教をテーマにした詩集なんてそうそう売れる物ではないので、在庫の山になってしまいます。愛や恋を扱ったロマンチックな詩集だったら少しは違うかも知れませんが。でも、第一詩集「超えて行く」も第二詩集「まばゆいばかりの光を浴びて」も、これだけ年数が経つ内には、どうにか捌けてしまってはいるのですが。
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クレヨン水彩もこの頃は描いていません。春の植物たちを描けば楽しかろうと思います。