さみしくて。我慢ができなくて。とうとうここへ来てしまった。地上での修行を放棄してはならないということは分かっていて、ずっとブレーキを踏み続けていたのだけど。もうおしまい。ブレーキ板が擦り切れて効かなくなってしまっている。じゃ、しょうがないよね。纜(ともづな)が切れたさぶろうは一気に上昇をする、錐揉み状になって渦巻回転しながら。そしてここへ来てしまった。おっかあとおっとうがにっこりして立っている。出迎えている。背景は満開の菜の花。黄金色が眩しい。麦畑には声雲雀が高く低く飛び回って囀っている。
あまいあまい。そんなことを考えているさぶろうは甘い。
大天使に会いたい。大天使はキリスト教社会の言葉だから、ちょっとさぶろうには不似合い。不似合いといえば不似合い。第一、言葉も通じないかも知れない。会ってどうするの、さぶろう? うん、両腕で抱き取ってもらいたい。僕は軽くなる。小鳥の羽根の産毛ほどに軽くなる。大天使の腕の中という超常現象を体験してみたい。拒否や拒絶ではなく、承認と受容を獲得したら、さぶろうはもうそこでとろりとろり液体になって解け出してしまうかもしれない。頬摺りをもらうと小さな草露のようなさぶろうは気体になって、形を保てなくなってしまうかもしれない。大天使の名はガブリエル。ラファエル。マイケル。たくさんたくさん列んでいて、僕は次々と抱き取られて行くので、ふかふかしてきて雲になって、やがて神々を賛美しながら、賛美の歌を歌いながら、山上の風とともに浮かんでいることになる。そういうイマジネイションをして楽しんでみた。あまいあまい。あまいんだよなあ、この幼稚なさぶろうは。
産経新聞14面に、東京国立博物館で「インドの仏 仏教美術の源流」展が開催されているという記事が載っていました。紀元1世紀ごろのクシャーン朝の「仏座像」、ガンダーラ出土の「弥勒菩薩座像」の写真が惹き付けます。初期の仏たちに会いに行きたくなりました。なんだかお釈迦様が「ようこそ」と出迎えてくださるような気もします。
でも、東京は遠いなあ。僕は飛行機が苦手だから、行くとなると新幹線を利用することになります。博多からでも5時間かかります。今なら同時開催で「みちのくの仏像」展も見られます。行きたいなあ。一日では見終わらないかも知れません。東京2泊だとお金も大層かかります。うう~ん、うう~ん。東京の地下鉄、電車も慣れていません。
おはようございます。昨夜は手足がむずむずするほどあたたかかった。夜中、お布団を蹴飛ばしていました。今朝の空は鉛色をしています。雨はどうにか止んでいるようです。春になりましたよ。近隣の辛夷の花が満開です。僕はYouTubeでバイオリンの名曲集を聞きながら、ぼんやりタイムにはいっています。
*
人にはそれぞれ大好きな時間、大好きな映画、大好きな文学作品、大好きな果物、大好きな場所、大好きな人などがあります。これは、多く、理屈抜きでしょう。それを思い起こしただけで心地よくなります。
*
大好きな人はこちらがそう思っていても一方交通ということもあります。相手を傷つけるということもありますから、僕はこれまで胸三寸の秘め事にしている場合が多かったようです。愛された経験も人を心地よくさせてくれますね。父や母や祖母、親類縁者、先生、先輩、同窓生、仕事仲間などから大切にされたことなどが思い出されます。
*
ここで珈琲タイムになりました。僕は濃い珈琲は苦手です。うっすら薄い味を好みます。人間味、人情味、面倒見などが薄いからかもしれません。その通り、交わりも淡泊です。粘っこいのは性に合いません。束縛するのもされるのも双方に苦痛が伴いますから。君子の交わりは水の如し、だなんて気取るつもりはありませんが。さらさらのお粥を啜るおいしさを知っています。
*
話が飛び飛びになっています。ごめんなさいね。どうも焦点が定まりません。珈琲といっしょに甘いお菓子を欲しがる人も居るようですが、僕はそうではありません。その代わりといってはおかしいでしょうが、口ではなくてこころが甘いお菓子を食べたがります。こころが低血糖症になっているのかもしれません。
*