<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

功成らず名遂げずともよし

2015年03月23日 15時54分48秒 | Weblog

本願の名号は正定(しょうじょう)の業なり。至心信楽の願を因と為す。等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり    「正信念仏偈」より

早島鏡正・田中教照両師の名訳を挙げます。

「阿弥陀如来が、その本願と修行のありったけをこめて、我等に称えられる者として与えられたのが「南無阿弥陀仏」の名号である。第十七の願によって、名号はわれらの浄土往生を決定する業因であるとされる。第十八の願には、至心・信楽・欲生の三心が我等の浄土往生の因となることが誓われ、第十一の願には、信心を得れば、次生には必ず仏となる身と決まり、命終わって、浄土で仏果を開くと誓われている」

さぶろうの自己流解釈をしてさぶろうを歓ばせてあげることにする。

1,本願の名号は正定の業なり。2,故に必至滅度の願いは(称名のその場で)成就したりなり。

名号を称えれば浄土往生の決定が結果されるので、称名は正定の業(ハタラキ)である。よって、わが涅槃(必至滅度)がここで即ち成就している。

成就をしているのなら、これでもういい。名号一つでよし。手荷物なし。肩書きなし。

この世で功成らず名遂げずとも、よし。(となると、だ、功成り名遂げた人に悪いなあ) 有能でも無能でも、どっちでもよし。(となると、だ、有能者に悪いよなあ)幸福に酔っている者も酔わないでいる者も、みなよし。(となると、だ、幸福に酔っている人に悪いなあ) 難波のことは夢のまた夢。名号を称えたらみんな到彼岸のスタートラインに一斉に列ぶことができる、ってことになる。それだったら、平等だからいいよね。

そんなに簡単でいいのか。よろしい。(ここから一挙に話が飛ぶよなあ)

そんなに阿弥陀仏まかせでいいのか。よろしい。阿弥陀仏がそれでよろしいと言って誓っているから、よろしい。

必至滅度も浄土往生もさぶろうの仕事ではない。さぶろうにその力量はない。阿弥陀仏の一人働きであった。ああ、よかった。(偽者信者のさぶろうもここで安心をする)

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あの世行きのパスポート

2015年03月23日 15時24分19秒 | Weblog

当地の桜が三分咲きになりました。でも、吹いてくる風は冷たいので、ジャンパーが必要です。お昼ご飯の後でちらりと見物をしてきました。

さぶろうはあと2日すれば誕生日を迎えます。古代稀なりの大台に乗ります。父が身罷った年齢です。さぶろうもいざというときの覚悟をしています。そんなに力むことはありません。自然な準備態勢に入っています。

さぶろうの法名はもう10年前に西本願寺さんより頂いています。釈応帰と言います。これは仏門に入ったという身分証明書になります。肉体が死を迎えるときに阿弥陀仏が建設された極楽浄土行きのエアバスがやってきます。これがパスポートになります。このエアバスに搭乗します。パイロットは阿弥陀如来です。アテンダントはたくさんの菩薩さま方です。安心です。「釈」は<お釈迦様の家族の者>を示すファミリーネーム。「応帰」は「応(まさ)に(故郷の国、浄土に)帰らんとする(者)」という意味合いです。ぴったりです。

ちょっと眠くなりました。炬燵をオンにしてあたたまって、それで、うつらうつらしています。

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徒労に終わらせてはなるまい

2015年03月23日 06時37分49秒 | Weblog

1,諸仏世尊は衆生をして仏智見を開かしめ、清浄を得せしめんと欲するがゆえに世に出現したまふなり。

2,諸仏世尊は衆生をして仏智見を示さんと欲するが故に、世に出現したまふなり。

3,諸仏世尊は衆生をして仏智見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまふなり。

4,諸仏世尊は衆生をして仏智見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまふなり。

妙法蓮華経「方便品」より

さぶろうは今朝はここを開いて聴いてにっこりするとしよう。諸仏世尊は、さぶろうに過去を悔やめとも現在を嘆けとも未来を嘲笑えとも言ってはいない。ただ仏智見を開いてほしい、悟ってほしい、この大きな道に入って来てほしいと願って、さまざまにこれを示めそうとされるばかりだ。

仏智見とは仏陀の智慧の眼である。この眼を通して世界を見ればあなたも仏陀と等しい世界を見ることができると言うのだ。この眼は清浄の知見である。あれこれ煩悩の汚れで汚していない知見である。澄み切った大空のような知見である。

春の大空の一角にこの仏智見の眼鏡レンタルショップがありそうではないか。これをレンタルすればたちどころに仏陀の説くところの清浄世界が見えて来そうだ。無論、レンタル料は無料のはずだ。

菜の花、タンポポ、スミレ、梅、桜、辛夷が、「あらあら、まあ、あなたの裸眼で見ても、わたしたちはそのまま清浄そのものですよ」などと冷やかしてかかるかもしれないけど。

ともかく、仏の知見をさぶろうに得させようとしてこの世に出現されたのだから、この諸仏世尊の出現を徒労に終わらせてはなるまい。薄汚いさぶろう如きが得られるはずはないと尻込みをせずに、「はい、いただきました」と受けて、お礼を述べようではないか。

自らの努力で得るというのでは無理難題なのだが、ここは諸仏世尊が「どうか、さぶろう、お願いだから受けてくれ」と向こうからこうまで口を揃えてくださるのだから。3月23日、うららかに霞たなびくこの日、さぶろう、清浄の春の空の下に遊ぶ。

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日暮れて道遠し

2015年03月23日 06時20分32秒 | Weblog

どの道も窮め尽くすことなく中途半端で終わってしまったので、さぶろうはネックスワールドに歩を進めても、そこでやり直しを命じられそうな気がします。峠道で峨々たる山の峰を仰いで、そこからの山道を登り詰める段になると、踵を返してしまうのです。ともかく急坂にかかると息が切れてしまいます。そこを我慢することができません。何十年も生きて来たのにこうです。無難な平道だけしか歩けない男、嫌なレッテルですが、このレッテルを背中に貼られそうです。日暮れて道なお遠しです。

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夢で老師を拝す

2015年03月23日 05時48分18秒 | Weblog

おはようございます。夢で禅宗老師の尊顔を拝しました。緩やかな薄物の僧衣を纏って外に面した回り廊下の板敷きを、風のように颯爽と歩いてこられました。恰幅のいい、堂々たる巨漢で、それでいて中国老荘の隠者の趣がありました。年の頃は60前後か。色白で、きれいに剃髪が施されておりました。お顔立ちも覚えております。ここは禅寺の奥の間で、どうしてそうなったのか、さぶろうがたくさんのさほど年端も行かない人たちに中国文学の一コマを講じているところでした。障子戸が開いて老師がお入りになるところで夢が覚めました。お縁の向こうに広大な庭が広がっていて松の緑が見えました。若い頃、さぶろうはまず中国文学、唐詩漢詩の類いに興を覚えました。それからしばらく印度哲学に傾倒するようになりました。どちらもしかし山の麓をうろつく程度。すぐに我が才能のなさを理由にして引き返してしまいました。なんでも窮め尽くすことが苦手の、怠け者のようです。お恥ずかしい話です。後悔の念がさぶろうに老師の夢を見させたのかも知れません。

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