本願の名号は正定(しょうじょう)の業なり。至心信楽の願を因と為す。等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり 「正信念仏偈」より
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早島鏡正・田中教照両師の名訳を挙げます。
「阿弥陀如来が、その本願と修行のありったけをこめて、我等に称えられる者として与えられたのが「南無阿弥陀仏」の名号である。第十七の願によって、名号はわれらの浄土往生を決定する業因であるとされる。第十八の願には、至心・信楽・欲生の三心が我等の浄土往生の因となることが誓われ、第十一の願には、信心を得れば、次生には必ず仏となる身と決まり、命終わって、浄土で仏果を開くと誓われている」
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さぶろうの自己流解釈をしてさぶろうを歓ばせてあげることにする。
1,本願の名号は正定の業なり。2,故に必至滅度の願いは(称名のその場で)成就したりなり。
名号を称えれば浄土往生の決定が結果されるので、称名は正定の業(ハタラキ)である。よって、わが涅槃(必至滅度)がここで即ち成就している。
成就をしているのなら、これでもういい。名号一つでよし。手荷物なし。肩書きなし。
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この世で功成らず名遂げずとも、よし。(となると、だ、功成り名遂げた人に悪いなあ) 有能でも無能でも、どっちでもよし。(となると、だ、有能者に悪いよなあ)幸福に酔っている者も酔わないでいる者も、みなよし。(となると、だ、幸福に酔っている人に悪いなあ) 難波のことは夢のまた夢。名号を称えたらみんな到彼岸のスタートラインに一斉に列ぶことができる、ってことになる。それだったら、平等だからいいよね。
そんなに簡単でいいのか。よろしい。(ここから一挙に話が飛ぶよなあ)
そんなに阿弥陀仏まかせでいいのか。よろしい。阿弥陀仏がそれでよろしいと言って誓っているから、よろしい。
必至滅度も浄土往生もさぶろうの仕事ではない。さぶろうにその力量はない。阿弥陀仏の一人働きであった。ああ、よかった。(偽者信者のさぶろうもここで安心をする)