「諸悪莫作 衆善奉行」
諸々の悪を作すこと莫(な)かれ。衆(おお)くの善を奉じてこれを行え。
仏教の教えるところの究極はここだと言う。悪いことをするな。よいことをせよ。
するなと言われるとしたがる。せよと言われるとしたくない。凡夫は天邪鬼だ。素直に従えない。
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「奉行」は命令を奉じてこれを積極的に行いに移すことである。善は命令されている、そういう受け取りだ。命令を恭しく聞き取って実行する、実践する。誰からの命令か。宇宙の意思かもしれない。諸仏かもしれない。神々かもしれない。古代中国流に言い表せば天かもしれない。命令をされていないと、煩悩に酔い痴れている者が善を行うことは難しいということか。
「いつでもいいですよ、あなたの気の向いたときでいいですよ」となると、悪を断つことも難しくなる。善を敢行することも難しくなる。「これをしないと殺すぞ」とばかり迫って来られるとしぶしぶこれに従う。慈愛に満ちた仏の顔がやさしく諭すくらいでは、いつまで経っても諸悪莫作も衆善奉行もできない。
第一、善悪の見境がついていないのである。何が善で何が悪かも分かっていない。分かると悪がやれなくなり、善を行わないといけなくなるので、わざと分からないフリをしているかもしれないが、判断が付きにくい。やはりこころの耳を澄まして命令を聞くしかないのかもしれない。
殺してはいけない。殺さないのが善である。殺すのが悪である。相手を生かすのが善である。相手を生かさないのは悪である。己を生かすと善になり、己を生かさないでいると悪になる。これが命令の第一条であるかもしれない。殺すな、これは五戒の第一条である。
恵まれた人間としてのわたしの命を生かす。殺さないで生かす。そうしていたいものである。お命も恵まれたのであるから、命令もそのとき同時に恵まれているのかも知れない。そう思ったりもする。
「諸悪莫作」も命令形である。「衆善奉行」も命令形表現である。命令だから躊躇逡巡は許されていないのかもしれない。だとすると、差し迫って聞こえて来る。諸悪とあるから悪は沢山ある。衆善だからこれも沢山ある。仏教の命令を奉じて行うと毎日がひどく忙しくなりそうだ。