「探る」「握る」「把握する」「掴む」「捉える」「捕まえる」の動作ははいずれも手偏である。手を使うものらしい。目じゃなくて、耳じゃなくて、臭いじゃなくて、こころじゃなくて、あくまで手を使ってするものらしい。五感で言えばそれは触覚である。手に感じるものである。手には感じられないものでも手で感じたい。すると体得した感じになれるらしい。ところがなかなか捕まえられないものがある。この世には掴もうとして捉まらないものがある。捕まえたと思ってもいつの間にか擦り抜けている。手の平には何にも残っていない。
自己とは何か。これもそうである。「生きている自己」とはどう把握が出来るのか。死んでいるのを生きていると勘違いをしているかもしれない。たしかに生きている自己というものをどう手に握るか。実体を鷲掴みに出来るか。生きているとしているが、その実は死んでしまっているのではないか。どうやってこの疑問疑惑を解明するか。これはなかなか手強い。ある日あるときふっとこれに捕まってしまうことがある。大きな手だ。逃げようとする。逃げた方へ大きな手が動いてくる。「お前はほんとうに生きているのか」「お前を見ているとどうもそうとは思えない」という問いかけの大きな手だ。敵も手を使ってくる。
自我ではなくて自己とは己の何処にいるのか。欲望する瞬間瞬間をかいくぐっている野鼠のようなのではなくて、堂々として君臨できている永遠の自己を探り当てて生きているか。これを我が手に握りたいのである。我が手に収めておきたいのである。欲望する自我はその場その場をごまかしている偽り者だ。そんなもので満足が出来ているはずがない。一生をその偽り者と暮らしていくのはご免だ。あるときここに目覚めてしまう。薄っぺらは嫌だと思う。借り物は嫌だと思う。そんなものを脱ぎ捨てた後にあるもの。ヒマラヤのように聳えているもの。それを見たい。そういう自己と対峙していたい。着ている服を自己とするのではなく、そんなものを一切合切脱ぎ捨てた裸身の自己自身に成りきっていたい。
藻掻く。掻きむしる。探りを入れる。手を延ばして掴み取ろうとする。旭日が射してくるように不意にそれが顕わになっていく。それを抱いて触る。撫で回す。遠い遠い旅をしてきたがやっとここが目標地点だ。旭日の自己が我が手の内に燦然と耀いているではないか。しかしそれも束の間である。またもとの黙阿弥になっている。また旅に出るしかない。人はいつもこうして旅に出ている。自己実現すべき両手を振り翳しながら。そんなもんでは嫌だ、そんな薄っぺらな自己がこの世を生きているはずがない。