<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

ズッキーニの天麩羅、こりゃ、ううっ、うめ

2016年05月24日 21時56分12秒 | Weblog

ズッキーニの天麩羅。こりゃ、うめえ。「うまい」や「おいしい」を通り越している。今日のは厚めに切ってあった。1・5cmくらいもあった。これを高温で揚げてあった。てひひひひ。畑のを収獲してすぐだものなあ、うめえはずだよ。あっつあっつで食べた。論より証拠。論が要らなかった。

 

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それがしかし宇宙の意思なのである

2016年05月24日 21時43分19秒 | Weblog

誤解が生じるかも知れない。

仏徳がわたしの身に満ちている、という受け取りは傲慢かもしれない。傲慢である。横着である。悪の権化のさぶろうにありうることではない。それがありえているのである。

仏にしか徳はない。功徳はない。しかし、その功徳がわたしの身に満ちているのである。

さぶろうに赤い血が流れているのは仏徳である。さぶろうが空気を吸うと生きていることが出来る、これも仏徳である。さぶろうが立っているところは大地である、これもさぶろうが授けられた仏徳である。それが全部、全部が全部満ちたので、さぶろうがここにいるのである。仏を念うことができているのである。

虫のよすぎる話なのである。阿弥陀仏の救済のただ取りは虫がよすぎるのである。横取りなのである。

それがしかし宇宙の意思なのである。わたしをこの宇宙の生命とされた宇宙の、意思なのである。

 

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仏徳が、いまだ仏でないわたしの身に満ちている

2016年05月24日 20時37分22秒 | Weblog

親鸞聖人の和讃の中に「不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てり」とある。

「仏徳が、いまだ仏でもないわたしの身に満ちているが、これを一つ一つ称えることも説き明かすことも思議することもできぬ」という述懐である。しかし、我が身に満ちて満ちて満ちているのである。

功徳は仏徳である。仏さまの徳である。これをそのまま念仏の行者に授けられるのである。それで、さぶろうが今日の一日を過ごせたのである。大空を美しいと見ることができたのである。五濁にまみれながら、悪世に居て悪をなしながら。これは本願のしかあらしめる力である。さぶろうは僧ではない。だから行者とは言えないかもしれない。でも仏は平等である。念仏を称える称えないには拘っておられない。みな導いておられる。守っておられる。仏の救済は平等である。どんな条件もつけてはおられない。だから、さぶろうがいながらにして五月の風を涼しいと思うことができたのである。だから、さぶろうは嬉しいのである。仏の功徳が我が身に満ちていたからである。

その和讃を挙げてみる。

五濁悪世の有情の/選択本願信ずれば/不可称不可説不可思議の/功徳は行者の身に満てり        浄土真宗経典中「五十六億和讃」より

ごじょくあくせの・うじょうの・せんじゃくほんがん・しんずれば・ふかしょう・ふかせつ・ふかしぎの・くどくは・ぎょうじゃの・みにみてり

これはさぶろうに言い聞かせるための解釈文です。曲解ですから、ご用心。みなさんはみなさんで読み取ってみてくださいね。

ここから後は蛇足です。字義を電子辞書を参考にして確かめます。

「五濁悪世」とは5つの濁りの現れた悪世。末法の末世。五つの濁りとは、1)劫濁。時代の汚辱。飢饉、悪疫、戦争に苦しめられる。2)衆生濁。身心が衰えてさまざまに苦しむこととなる。3)煩悩濁。愛欲が盛んで互を憎しみ争いが絶えなくなる。4)見濁。誤った思想・見解が氾濫してこれに汚される。5)命濁。寿命がしだいに短くなって行く。

「有情」は生存する者の意。サンスクリット語のサットバア。こころの働き・感情を持つ者。衆生に同じ。

「本願」は菩薩・如来が過去世に於いて建てた衆生救済の誓い。誓願。本誓。阿弥陀仏は四十八の誓願を建てられた。「選択」は「せんじゃく・せんちゃく」の読みがある。修行中の法蔵菩薩は四十八の誓願を選び取られたが、それを絞り込むと第十八願の一つになる。

「たとい我,仏を得たらんに,十方の衆生,至心に信楽 (しんぎょう) して我が国に生れんと欲し,乃至十念せん,若し生れずば正覚を取らじ」これが眼目とされる第十八願である。

「行者」は修行中の者。阿弥陀仏を信じてひたすらに仏道を歩む者。「功徳」は善行の果報。神仏の恵み。ご利益。

ほんとうは善行をしないさぶろうがもらえる功徳はない。功徳はすべて仏さまの功徳である。これを横取りしているのである。申し訳がない、そういう気持ちがいっぱいである。念仏は自力で称えることはできない。念仏は他力である。阿弥陀仏のおはからいである。称えさせられて称えているに過ぎない。

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雨に濡れながらは快感

2016年05月24日 20時24分03秒 | Weblog

夕方、暗くなり際に雨が落ちてきた。作業を続けた。いい気持ちだ。雨に打たれながらは快感だった。といってもわずかな時間だった。すぐに本降りになったし、暗くなってしまった。とにかくよく働いた。夜明け早々の6時から外に出ていた。

今日は曇り日だったので、お昼ご飯の時間を除いてはほぼ野良仕事をしていた。ときおり涼しい風も吹いて来た。前日とは大違いだった。前日はあまりの暑さにばててしまった。一挙に食欲不振になった。食べ物が喉を通らなかった。昼からはしばらく寝て過ごした。今日はそういうことはなかった。食欲も回復して素麺を半把茹でてするする啜った。

夕食は、友人が釣ってきたキス(奥さんが散歩がてら届けて下さった)を天麩羅にしていただいた。白身の魚がおいしかった。ズッキーニ、黄色人参、大蒜、玉葱、蒲鉾もいっしょに天麩羅にしてもらった。みな我が家で収獲したものばかりだ。いきなり上がってしまった血糖値を気にしながらも、缶ビールの金麦を一缶飲んだ。どうなったっていい、ここで終わっても文句なし。だった。

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極楽ではどんな楽しみを極めるのか わが憶測

2016年05月24日 10時49分25秒 | Weblog

「極楽」は「楽を極める」とも読める。「至極極上の楽しみ」「極めつきの楽しみ」「感極まった楽土」「極上の楽土」などとも読めるかも知れない。

サンスクリット語では極楽は「スカーヴァテイビューハ」。ここは仏界の楽土である。だからそこは「仏国土」「浄土」ともされる。

人間の暮らしている場所は娑婆という。これは堪忍するところだから、「忍土」とも名付けられている。

この忍土のような苦しみがなく、仏道修行をしている菩薩が受けることができる楽しみだけがあるところということになっている。

おのれおのれおのれに振り回される世界、おのれだけを可愛がる地獄界・餓鬼界・畜生界の三悪道がないとも書いてある。

人間は苦しみがないと楽しみが分からない。比較することでそれぞれが成り立っている。楽しみがあるから苦しみもある、そういうことになっている。

が、仏界ではそうなっていないようだ。苦しみがなくとも楽しみが単独で楽しみとなっていられるようだ。

仏界はだから、おのれの執着から解放された楽しみ=仏界の楽しみをとことん極めて行くところでもある。あくまで人間のときに味わったような種類の楽しみではない。菩薩、仏陀として受ける楽しみである。だからすべてが未経験である。

憶測するにこれはたぶん「利生の楽しみ」であろう。衆生利益(しゅじょうりやく)を実践して行くときに受ける種類の楽しみだろう。

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だからそれで個々人が自慢をしたりすることはないかもしれない。ひとり悦に入ることもないかもしれない。仏陀を楽しくさせるような楽しみなのかもしれない。

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衆生が生きているのはこの地球上だけではない。この宇宙には三千大千の国土が犇めいている。その国土には衆生がそれぞれの暮らしをしている。彼らはまだ苦しんだり悲しんだりしているし、楽しんだり嬉しがったりもしている。

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そこへ飛んで行って救済活動をするのである。衆生に「絶対楽」を説いて回り、自分もその「絶対楽」を体験していくのである。

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断っておくけれど、これはしかし勿論さぶろうの憶測である。憶測の範囲を一歩も出ていない。午前中草取りをしながら漠然と考えていたことだ。

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楽しみというのは極まっていくのだ。そういう種類の楽しみもあるのだ。仏界に入ればそういうような未経験の楽しみが味わえるとなれば、忍土の生を死ぬのも悪くはない、そうも思えて来る。

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この地上での我利我利の楽しみなんていうのはすぐ飽きが来るし、底に当たってしまうものだ。そんなものをいつまでひっくり返して、瞬間瞬間の己にあてがっていれば気が済むのか。さぶろうは考え込んでしまった。

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娑婆世界の我利我利は一から十「おのれ可愛さ」で成り立っている。そこを抜けるところに「極楽」「楽土」の楽が広がっているに違いない。

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6時にはもう外に出て農作業

2016年05月24日 10時31分55秒 | Weblog

6時にはもう外に出た。涼しい内にしか外に出られないからだ。プランターに夏野菜の種蒔きをした。白菜系統だが、夏に収獲が出来る変わり種だ。1時間半ほどして休憩。朝ご飯を食べた。食欲がないので味噌汁だけ。それから引き続き2時間。無言一人芝居の1幕第2場。もくもくと草取りに精を出した。蚯蚓さんが次々飛び出してくる。家宅侵入罪を犯していることになりそうだ。「ごめんごめん」を呟く。取った草を集めて捨てに行った。それからしばらく有機肥料を隠元豆に撒いて回る。午前中はこれでお終い。テイータイムにした。今日は曇り日だ。日射しが薄れている。暑くない。東京榮太郎の紅茶飴を嘗めている。

 

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