蝶々さんとふたりでいる。ここは小さな世界だが、大きな世界でもある。広がりがあるのだ。奥行きもある。深々としてもいる。ここの住み心地が掴めると、誰とだって何とだってふたりでいられるのだ。もちろん森の精とも。山の谺とも。若葉にきらきらと跳ねる五月の日射しとも。いまは蝶々さんとふたりでいる。それ以外は無用になっている。これで十分広い。明るいしあたたかい。
「僕」と「僕ら」とでは大きな開きがある。僕は死ぬ。僕らも死ぬけれど、みんながそうなるわけではない。僕らはそのうちの誰かが自然発生する。生まれて生まれて生まれて来る。だから僕らは常に一定を保っている。死ぬ者と生きる者が交じり合って「僕ら」になっている。なんだか、そういうふうに考えると、元気が涌いてくるじゃないか。僕はへにょへにょになっていても、いっこうに構わないことになる。僕が死んで行くこともそうだ。「僕ら」の全体で見れば一向に構わないことになる。自然発生と自然消滅ですむことになる。これは楽だ。だったら、「僕」ではなくて「僕ら」を選択していた方がましだ。この「僕ら」にはいるのは人間だけではない。小鳥も入っていい。蝶々も入っていていい。雲も風も自由に入って来ていい。出ていってもいい。神々もブッダも自由参加の、ちょっとしたクラブである。「僕」という単独意識に落ちないという不文律のほかにはこれといって戒律はない。
お天気は上々。まことに上々。我が輩も上々にしていなければ引き合わぬ。ともに足並みを揃えてからりと晴れる。外へ出た。例によって庭の草取りを始めた。手に握られるほどの小さな鍬で草を抜くとそこから蚯蚓が飛び出してくる。ここは蚯蚓殿のお住まいだったのだ。「申し訳ない」の詫びを入れる。庭は忽ちきれいになる。薫風が吹いている。楽しんでいい。楽しむ分にはいずれ劣るところがない。パーフェクトだなどと割り切ってみる。お天気のいい今日を恵まれた。上々の今日を恵まれた。悩みは悩み。いろいろあるけど、それとはしばらく向き合わないでいる。
石蕗(つわぶき)を摘んで筋剥きをしてみました、昨日。筋剥きはなかなか根気がいりました。指と手の平が灰汁で赤黒くよごれました。で、さっそく料理をしてもらいました。素朴な味わいでした。
我が家の庭のあちこちに石蕗が繁栄の都を造っています。秋口に施肥をしていたのが効いていて葉っぱが大人の顔くらいでかくなっています。それが各所ごと数十人もいてゆっさゆっさ揺れています。ほかの花が肩身が狭くなっていたので覆い被さってきていたものだけ摘みました。
石蕗の繁栄の都。まったくいい気なものです。何にも悩むことがないっていう顔をしています。葉っぱの緑が思いっきりつややかです。
身を低くするとそれだけ青空は高くなる。すると高い青空がいよいよ誇らしく頼もしく思えて来る。さぶろうはいよいよにこにこする。身を低くするといっても限りがある。野原に寝転がって打ち仰ぐくらいなもんだけど。そうすると高級な「青空付きのさぶろう」が数等大きくクローズアップされて来る。身分不相応だなあなどと思ったりもする。小さなさぶろうにはほんとうはちょっとだけでよかったのかもしれないのに、全部が全部をそっくりそのまま広げていてくれる。あまつさえ五月の爽やかな新緑の風がすういすういと渡って来て彼の元にとどまる。彼は元気を満たす。ああ、嬉しい。億万長者にしてもらうよりも嬉しい。彼の胸はその嬉しさでふくらんでふかふかしている。
老人だからしようがないが、夜中の頻尿は辛いなあ。寝ぼけ眼でふらふらしながら、トイレを行ったり来たりしている。これが老いるということなのだ。従うしかない。だったら、にこにこして従った方がいい。これほどに老いたのだ。長生きができたという証なのだ。喜んでもいいだろう。長生きにまつわる諸現象を。長生きしたくてもそうできなかった人だっておられよう。そうだったそうだった。頻尿を恨むのじゃなかった。浅知恵だった。深いところを読めないでいただけだった。人生にもゆたかな深層海流が流れているとすれば、ときおりここを訪ねてみるとしよう。夜中の3時半。さぶろうはちょっぴり己の思考鉄道の軌道修正をすることになった。このまま行けば愚痴迷妄路を進むことになっていた。
新聞配達のバイクの音がした。さあもう一度寝るとするか。