小説家は嘘を書く。嘘が書ける職業である。読者はこれをことごとく真実として受け取ってくれる。同調して泣き笑いをする。嘘だと分かっているはずだが同調が出来る。主人公になりすましてみたいのかも知れない。嘘の人生も歩いてみたいのだろう。
たとえばの話だが、もてもしないような超ブスの男性が超一流の恋愛小説を書いて、その場でもてる男に変身をする。変身願望がこれで満たされる。映画になる。二枚目俳優がいい男を演じてくれる。美女が錦鯉のように手の鳴る方へ寄って来る。たちまち美女に囲まれる。現実ではあり得ないことが、現出するのである。醜男は二枚目とぴったり合致してくる。嘘つきは、だから、止められない。
プロの小説家にはなれないとしても、そこそこの素人だっていいじゃないか。この醍醐味が味わえるのなら。たとえばの話でいいのである。これでけっこう幸福体験が出来るのである。お望みなら不幸体験もできるのである。
たとえばの話がいきなり真実味を帯びて来る。すると書いた当人はおろか、読者でさえも欺されてしまうのである。そして欺されることが双方愉快でならないのである。疑似体験ができるのだ。なりすましてしまうのだ。王子様や王女様になりすます。
人はそもそも多重人格者だから幾つかの人生ならまあまあそこそこ体験できるが、小説は一挙にこの人生の種類を豊富に倍加させてくれる。一度しか生きないのに、百度を生きたことにもなる。これは面白い。面白さに嵌まれば止められなくなるだろう。
小説家は次々に新しい小説を書いて行く。読者それを待って、仮想状況に嵌まってみる。偽物小説家だっていいのである。嘘つきが専門の小説家の偽物、これだって十分堪能できるのである。読者がつかないだけの小説家を自称してもいいのである。
人は夢を見る。夢はこの願望の実体である。ただし夢をコントロールできるというのは特殊技術なのだが。それができる人もいるらしい。僕はこの頃よく夢の空を飛んでいる。飛んで飛んであの世まで飛んで行ってみたいのだが。