7
「何が幸福だったのか?」と問われたら、「この世であなたに会えたのが幸福だった」とそんなふうに正直に答えられたらいいなあと思います。あまりにもそれは、映画の名場面みたいで、かっこよすぎるかもしれませんけど。
そうすれば、わたしが幸福なばかりか、あなたを幸福にして、喜ばせて死んで行けるのです。
映画の名場面? そうなんです、わたしたちは常にかっこよい名場面を生きています。名台詞が飛び出して来てもおかしくはありません。
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「何が幸福だったのか?」と問われたら、「この世であなたに会えたのが幸福だった」とそんなふうに正直に答えられたらいいなあと思います。あまりにもそれは、映画の名場面みたいで、かっこよすぎるかもしれませんけど。
そうすれば、わたしが幸福なばかりか、あなたを幸福にして、喜ばせて死んで行けるのです。
映画の名場面? そうなんです、わたしたちは常にかっこよい名場面を生きています。名台詞が飛び出して来てもおかしくはありません。
6
この世を去るときに、「わたしは幸福であった」と評価を下して行く人がいます。「幸福ではなかった」と残念がって行く人もいます。残念で締め括るのは、わたしは嫌です。
長く長くわたしは生きて来ました。それを否定形で納めたくはありません。幸福ではなかったとはしたくありません。できることなら、幸福だったと肯定をしたいと思います。
6
わたしが幸福の必須条件を満たしてなくても、わたし以外にそれを認め得て幸福に達するという人もいます。
今日ただいまの空が青く澄み切っているというだけで、それを宇宙全体の幸福として、重ね合わせることができる人もいます。いろいろです。
感激屋さんだったのでしょうか、明恵上人は、野に咲いたスミレを見て、感極まってそこにしゃがんで落涙されました。供のお弟子さんには何故上人が泣かれているのか解せませんでした。
いろいろな幸福があっていいのです。
5
誰でも幸福になっていいのです。遠慮は要らないのです。幸福には大小がありません。高低もありません。濃い薄いもありません。幸福になっていけないという制限はついていません。際限もありません。好きなだけ幸福になっていいのです。
誰でも幸福になっていいのです。尻込みをしないでいいのです。わたしは幸福だというのは自己評価です。その評価をする人に、幸福が着地を果たしています。
4
<幸福の基準がない>ので、基準を満たさないでもいいのです。あっさり幸福に突入してもいいのです。間違って幸福領内に紛れ込んでいてもいいのです。
味わっていると幸福がその顔をしてきます。その顔に釣られて、幸福を実感するということもあります。
3
<何処で幸福になるか>の明確な決まりはありません。幸福を覚えるか覚えないかは、その人個人にまかされています。
早い者勝ちです。「わたしは今が幸福だ」とすれば、その人は幸福です。
じっくり待って、待って待って、堂々と巨大幸福になるという人もいます。誰が見ても、その巨大さを見れば、なるほど幸福だろうと推察できます。
でも、形には拠らないのです。巨大でなくともいいのです。微小でもいいのです。違いがないのです。
2
スミレが咲いたら、わたしはそこに幸福を感じることが出来た、こころが安らいだ、という人もいます。ほんとうにいます。そうすることは、みみっちいことではありません。その人が低レベルだからではありません。
その人が其処で幸福になり得たのであれば、よろこんであげるべきです。酌量をしてあげるべきです。双六で言えば、早々とした<上がり>です。
人間の目標地点は、「わたしは幸福だ」と言える地点です。高いも低いもありません。
1
野にスミレが咲いた。これで幸福を覚える人もいます。「スミレが咲いたこととわたしの幸福とは無関係だ」といってそっぽを向く人もいます。それはそれでいいのです。決まりはありません。まったくもって自由裁量ですから。野にスミレが咲いたくらいで、たったそれしきで幸福を得るのは、低レベルだと見下すこともありません、よね。
4
「小欲知足」でもいいけれど、大欲知足でもいいのです。此処で満足するというところで、立ち止まればいいのです。
足るを知るというところが肝心要になっています。大欲の人でも、結局は足るということを知らされます。足るを知らなければ、苦しいばかりです。欲しがって欲しがって欲しがってあがいてあがいてあがきます。何処かで満足を覚えないと、苦しさが増すばかりです。虚栄、バニテイの倍率が上がれば上がるほど、落ち着きが得がたくなります。
安らぎのない繁栄というのはありません。あり得ないのです。疲労困憊で倒れてしまいます。わたしはそのように思います。
3
お金がたくさん入ってくるところでは、それに応じて、お金がたくさん出ていきます。出ていかないようにするにはケチるしかありません。ケチたら、大金持ちの醍醐味はなくなって、貧乏人と一緒になります。
だから、アクテイビテイの規模はそんなに重要なことではないのです。出し入れの決算値ははたいして変わらないのです。だから、羨まないでもいいのです。大山鳴動してネズミ一匹ということもあります。派手に振る舞っていても、豪華豪勢を演じているつもりでも、結局ネズミ一匹ということもあるのです。