もうやすみます。「寝る」を「やすむ」と読めたらいいのになあ。
明日の朝までに、死んでいたら、「やすみます」は、大きな意味合いを持ちます。お昼休みのようにしてやすむのです。お昼寝のようにしてやすむのです。すると、「死む」と書いて「やすむ」になります。もうやすみますはもう死にますになります。それくらい淡々とした挨拶でこの世を死んで行けたらいいでしょうね。あの世で目を覚ますときが爽やかでしょうね。お昼寝のようにして死ぬのです。死の床に就くのです。軽々と死ぬのです。
もうやすみます。「寝る」を「やすむ」と読めたらいいのになあ。
明日の朝までに、死んでいたら、「やすみます」は、大きな意味合いを持ちます。お昼休みのようにしてやすむのです。お昼寝のようにしてやすむのです。すると、「死む」と書いて「やすむ」になります。もうやすみますはもう死にますになります。それくらい淡々とした挨拶でこの世を死んで行けたらいいでしょうね。あの世で目を覚ますときが爽やかでしょうね。お昼寝のようにして死ぬのです。死の床に就くのです。軽々と死ぬのです。
即興詩 「わたしは騙し屋 騙され屋」
ないものでも、あるにする。これがわたしの欺し術。欺されるあんたが悪い。あんたとは、わたしのことなのだが。
あってもなくても、ほんとうはどうでもいいのである。どっちだっていいのである。それで、右往左往させられなければ、あってもなくてもいいのである。
ない方がよければ、ないとしていいのであり、ある方が安心できるのであれば、あるとしておけばいいのである。
どっちにしたって、それは、わたしの所有ではないのである。宇宙の所有である。わたしは裸で生まれて来て、裸で死んで行くのである。所有を主張したところで、永遠の所有はないのである。
わたしは騙しを使う。それでわたしが楽しめるようにする。それでわたしが安らげるようにする。それでわたしが幸せを実感できることができるようにする。
わたしは騙されている。平気で騙されている。いい気なものだ。死ぬまでの間じゃないかと高を括って、鼾を掻いて寝てしまう
いい詩が書きたい。いい詩が書きたいのに、中々中々いい詩が出来ない。それでも諦めきれないでいる。
いい詩が書きたいという声を、ああ、いったい何十年叫び続けていればいいのだろうか。
チャンポン屋さんがちゃんぽんを作って、店に入って来た客にものの数分で差し出すように、「はいできました」「一丁上がり」と言うふうに行くのなら、どんなにかいいだろう。肩の荷が軽くなるだろう。
「おいしい詩ができました、一丁上がり」と威勢のいい掛け声を上げてみたい。
5
蛇は水を飲んで、これを毒に変え、牛はこれを飲んで乳とす。そういう諺がある。同じ物でも毒にも乳にもなれる。そこが面白い。一筋縄ではいかないのである。
悲しんで当然という風に思われる者が、それをそうせずに、向きを変えて、よろこびに変じているというケースもよく見かける。逆もある。それでけの条件を得ているならば、当然よろこびに浸っていいと言う人が、期待を欺いているケースもある。
詩を書く詩人は蛇なのだろうか、牛なのだろうか。毒の提供者なのだろうか。乳の配達夫なのだろうか。いな、読者こそが牛であればいいのである。
4
詩はメランコリックである。よくよくメランコリックである。メランコリックは涙を誘う。
これでたちまち欺される。なに、欺された方が勝ちなのである。術に堕ちて泣かされていいのである。故に、詩人というのは欺し屋だということになる。
欺すのは、普通には罪悪だが、悪というのは相手が被害を被ってこそ悪なのだが、相手は被害を被るどころか、それで人生を肯定してかかるようになるのである。その引き金を引いた詩人が疎んじられるはずがない。
涙を流した者は、これで爽快になる。なにもかも流し切って、爽快になる。そういうこともある。
3
文学はここのところを掴んでいる。しっかり押さえている。それで、ありきたりの不快を醸造して、快に替えて見せて来るのである。それを、不快の種を、それと知らせずに飲ませる、そしてそれを快にして花咲かせるのである。
効き目は覿面でじわりじわりと効いてくる。そして高価なワインを一瓶飲み干したような酔いを手に入れるのである。
いいではないか。不快の種が快の果実をつけるのである。だったら、不快も捨てたものじゃないということになるだろう。メランコリックが人をカンファタブルにもハッピーにもするのである。
2
これを一匙、スプーンに載せて服用すると、いかなるときにも、効き目が出て来る。不思議や不思議、不快が快を生んで来るのである。よくしたものだ。原料が快でなくとも、人はすみやかに快になれるのである。
<よくしたものだ>というのは、<普通の流れに乗っていなくとも><その条件下ではなくとも><まったく期待出来ない方式であっても>ということである。
これは、詩の世界のみではないはずである。<瓢箪から駒>は随所に起こる。あるはずのないところに、快が起こる。
1
メランコリック。愁いに沈んでいる気分。でもこれが、アヘンなのである。発酵が進めば、人の頭脳へ侵入を図って、明らかな陶酔を興させるである。俗に、不快とされているものが、脳内各所で酒麹菌のようにぐつぐつ音を立てて発酵をするのである。
詩 「あなたはうつくしいクリスタル」
わたしは/さみしいといつも/あなたに/はなしかけてみる/あなたは/クリスタルでできていて/とうめいで/あなたのむこうの/はるのそらを/すかしてみせてくれる/そしてはるのそらに/はなしをさせる/あなたはわたしのまえでは/きまっていつも/だまっていて/とうめいな/うつくしいクリスタルになっている
詩 「春のたんぽぽ」
たんぽぽに、わたしの、思いを入れたので、重たくなってしまったのだ、風が吹いて来ても、飛ばなくなってしまった、白い綿毛が、土に転んでいる、たんぽぽが、春の空を、軽々と、飛んでいくためには、わたしの思いを、抜いてあげねばならない、指にピンセットを当てて、手の平に乗せて、棘を抜くように、抜いてみる、息を吹き掛けて、ふっと飛ばす、夕暮れ時に、桜色の雲が来て、軽くなったたんぽぽを、連れ去って行った