それから、新芽を着けだしている牡丹の株の根回りに、細かくなった有機牛糞を、どさりと施肥して、積み上げた。牡丹は肥料を喰う。これで元気旺盛になるだろう。春には大輪を誇るだろう。明日は木瓜にもチューリップにも施肥をしてあげよう。
それから小葱を庖丁で株元から切り取って、摘んで来た。容器一杯になった。ここで野良仕事は切り上げて、家の中に入った。台所に座って、半時ほど小葱の枯れ葉を落として、丁寧に揃えた。こんなことをしているくらいで愉悦へ来るのだ、この老人は。
それから、新芽を着けだしている牡丹の株の根回りに、細かくなった有機牛糞を、どさりと施肥して、積み上げた。牡丹は肥料を喰う。これで元気旺盛になるだろう。春には大輪を誇るだろう。明日は木瓜にもチューリップにも施肥をしてあげよう。
それから小葱を庖丁で株元から切り取って、摘んで来た。容器一杯になった。ここで野良仕事は切り上げて、家の中に入った。台所に座って、半時ほど小葱の枯れ葉を落として、丁寧に揃えた。こんなことをしているくらいで愉悦へ来るのだ、この老人は。
ほんの30分ほどだけど、花壇の草取りをして来た。チューリップが発芽して来たようだ。ここへホトケノザが群萌している。ホトケノザは逞しい。葉も根もがめつい。チューリップの発芽を傷つけないように慎重に草を抜いた。片手に小さな鍬を握って。夕方の風は冷たかった。鼻水が垂れた。草取りをすると機嫌が良くなるのだ。
2
すぐに帰宅した。スーパーで泥付き牛蒡を買って来た。台所に直行。泥を落として、水道の栓を開いて、ごしごし洗って、庖丁で棒状に細く細く切った。水に浸けて灰汁を抜いた。真っ白になった。醤油味ピリ辛きんぴらを作ってもらうことにした。鼻につんと来る牛蒡の香りが好きだ。これで白ご飯がおいしく食べられる。
自分で自分の手足が動かせる間が花なんじゃないか。いまはまだそうできる。スーパーへ行って欲しいものを買って来て、台所に立てる。
1
午後3時まで「高齢者と福祉」と題した講義を聞いた。講師は大学の社会福祉学科の教授。介護付き老人ホームのケアの実態などを聞いた。トラブルも多いらしい。介護する側、される側、どちらにも相応の悩みがあるようだ。介護を必要とする高齢化社会に突入している。長生きが金科玉条になっているが、痴呆して感謝の声も掛けられなくなって、多くの他者の世話を受けて生き永らえていかねばならないとしたら、あんまり長生きするもんじゃないなと、僕は思った。辛抱して終いまで聞いた。途中しばらく居眠りをしてしまったけど。
お天気がいいなあ。ポカポカ陽気だあ。僕は一日、室内で講義を受ける。「高齢者の福祉」というタイトルの講義を。お昼は弁当を食べた。
宇宙はわたしを含めています。疎外をしていません。微細を大切にしていてくれます。
わたしは宇宙の内蔵です。内臓です。小さいけれど、はらわたです。
宇宙を成り立たせようとして活躍をしています。
そういう自負、そういう矜持を引っ提げて、宇宙全体を眺めてみるのもいいものです。
6
(これは4,5から続いています)
個の自覚を離れてみます。全体になってみます。全体意識をふくらませてみます。個への執着を離れてみます。そこに息を吸える間隙が見えて来るように思えます。ふっと息をつきます。
わたしたちはたしかに個であります。個ではありますが、個の集団の全体でもあります。個は点滅をします。全体もまた点滅をしていますが、誕生もしています。無限の誕生をしています。
わたしは個でありながら、しかし、全体の宇宙でもあります。そこを見落としては行けないのです。
5
(ここからは蛇足になります)わたしは陶淵明の詩が大好きです。
でも、わたしも月日の生んだ落とし子であります。陶淵明さんに、楯突いてすみませんが、わたしも自然界の自然児であります。
この故に、月日として無限の循環を続けています。わたしは個ではなく全体だったのです。こう思うと腸(はらわた)が千切れてしまうこともありません。
4
日月還復周 我去不再陽
月日(自然界)は無限の循環を続けている。太陽ではないわたしは、此処を去って行けば、再び戻って来ることはない。
という嘆きが語られています。詩人の嘆きは深刻です。
でも、わたしは此処を離れます。この嘆きから解放される道を選びます。
3
意味を見てみます。これはわたしの解釈ですから、曲解です。まがっています。よじれています。
花として咲いているのは暫くの間/盛んであっても衰えて行く/春の三月に池の蓮が開いたが/秋になってもう枯れた花托になっている/道の辺の野草に霜が下りている/まだ枯れきってはいないよう/月日は無限の循環を続けている/しかし人間であるわたしは一度死去すればもはや再びはこの世に戻ることはない/であるのなら、生きて来たこれまでの暮らしを懐かしんでいるよりないが/懐かしさが却って断腸の苦しみを興させる