雨が降り出しました。闇の向こうで大きな音がしています。本降りのようです。
昔昔の写真がたくさんたくさん出て来ました。30年、40年前のもののようです。なつかしくなって、途中で切り上げられなくなって、それをずっと2時間ほども見ていました。お風呂を上がった後、暖房もつけていないお座敷で見ていたので、すっかり冷えてしまいました。楽しかったことも、嫌なことも思い出されてしまいました。
雨が降り出しました。闇の向こうで大きな音がしています。本降りのようです。
昔昔の写真がたくさんたくさん出て来ました。30年、40年前のもののようです。なつかしくなって、途中で切り上げられなくなって、それをずっと2時間ほども見ていました。お風呂を上がった後、暖房もつけていないお座敷で見ていたので、すっかり冷えてしまいました。楽しかったことも、嫌なことも思い出されてしまいました。
九州国立博物館へ向かっています。真言宗醍醐寺の仏像などの国宝展を見に来ました。どうだろう。駐車場が空いてるかなあ。12時を過ぎたので、途中のうどん屋さんに入りました。博物館の隣は太宰府天満宮です。菅原道真公は梅がお好きだから、梅園があります。梅見もして来ますね。さあ、咲いているかなあ。5個入り梅ヶ枝餅を土産に買うつもりです。
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仏陀は次の仏陀を目指して行く。第一段階が、第二段階に進む。第三段階に進む。際限がなく進んで行く。その折その折、その段階その段階の仏陀が現れて、誘いかける。導いて行く。
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わたしは、先へ進んで行くように思います。向上を遂げていく。進歩の度合いを深めて行く。高く高く飛翔していく。輝いて輝いて明るく明るくなって行く。それを想定したいと思います。みなさんは、いのちの旅に、終着地点があると思われますか。次がもう終着駅だと思っていますか。
わたしはまだまだ完成を見ていないから、此処で終わると半熟卵です。それはそれでおいしいのですが。
5
この世とあの世。あの世が終着地点でなければ、さらに次の世。あの世とあの世。戻って来るとすれば、あの世とこの世。戻らずに先に進んでいくのであれば、際限がなく続いているはず。宇宙銀河が際限がない広がりであるように。
4
二つに跨がっていれば、だから二つの基準が錯綜することになります。相容れない場合も起こるかも知れません。その内のどちらが正しいのかは判断が出来ません。目盛りが違っているからです。
その国に行けばその国の習慣に従いますよね。郷に入れば郷に従う。でも、従っているだけで合って、それが絶対と言うことではない。
3
此処と其処、この世とあの世は、場所の移動によって変わります。時間はどちらにいても共通に流れているのであれば、変化はありません。独自な時間を刻んでいるのかも知れません。此処に居る間は此処が基準です。足場があるところが基準値ですよね。
移動をどうやって実現するのでしょう? 物質でなくなっているのだから、物質移動ではないはずです。船も飛行機も電車も使わずに済むでしょう。
2
あんなに心配をしていたのに、そうではなかったね、などとほっとすることもあるでしょうし、その反対で、もっと深刻だったりもするでしょう。ともかく「なあんだ、そういうことだったのか」と種明かしをしてもらえるかもしれません。次の世の想像想定が、其処に到着したら、是正されます。
1
死んでしまって、あの世に往くと、そこが「この世」になります。一コマが進んだことになります。そこから、生きていたころの世を見直すことになります。はたして、そこでは、どのような見直しが起こって来るのでしょう。興味津々です。
わたしの頬は真っ青になるでしょうか、薔薇色に染まるでしょうか。
2
青山がそこに青々と聳えていれば文句はないのであります。緑水が緑に映えて流れていれば文句が出るはずはないのであります。名月が輝いておごそかであれば不服はないはずであります。清風が頬をやさしく撫でて、こころおだやかにあれば、不服はないはずであります。
この老爺は欲張りであります。青山を得て緑水を得て明月を得て清風を得ていても、なお物足りない顔をしているのであります。