外は北風が吹きつけて寒いのに、外に出ていた。小葱の畑の草取りをしていた。小葱に施肥をしていたので、草も勢いづいて肥っている。それを、片手に握られるほどの小さな鍬を持って、えいこら掘り起こして、抜いた。お風呂用の丸椅子に腰を掛けてゆっくり。草は笽(そうけ)二杯分になった。畑の隅っこによろよろ運んで行って、捨てた。お昼になった。仕事止め。1時間ほどだったのに、錯覚で4時間ほどもし続けた気分になった。満足した。気分が落ち着いた。おれは、草取りをすると落ち着く。これくらいがちょうど今の自分に適合しているようだだなあ。
友人が尋ねてきた/中国のお土産の/乾し葡萄を持ってきてくれた/上がってもらってお茶を飲んだ/餅を食べたいという話になって/水に浸けているお正月の小餅を/分けて持ち帰ってもらった/干し大根も好きだというから/干し上がったカンコロを4袋差し上げた/それでさようならをした/ところがそれからいっときして今度は/やっぱり外国を旅行してきたその土産の/チョコレートの塊を/運んで来た/やったりとったりした/今日は休日/建国記念日/外へ出たら寒い風が吹いていた
偶成 「おとうを思い出している」
1) なんだろうねえ/おとうをひょいと思い出して/いまどきめそめそしている/瞳の奥に涙がたまってきている/おいおい/どうしたんだ/どうしたんだよお/
2) 40年も前に死んだおとうを/今日日も変わらずおとうにしている/40年前だろうと/ちっとも変わらないんだよなあ/おとうはおとうだもんなあ/
3) なんだろうねえ/おとういるか/そこにいるか/おとうの方から/息子のおれに/会いたくなったんじゃないのか/
4) 息子のおれは/すっかり老人だあ/おとうの死んだ年齢を超えている/おとうよりも、だから年上だ/それでもおとうの息子でいる/
5) おかあと二人でおれを生んで/二人とも死ぬまで/おれの名前を呼んで/呼び続けて/大事に育ててくれたんだものなあ/長く親子をしたんだものなあ/
6) できそこないのおれの面倒を/文句言わずに/可愛い息子として見てくれたんだものなあ/その息子のおれが/おれ自らでおれを自慢できるところがない/
7) おれはすまんなあと思う/おとうにこれだけ大事にされて/愛されていたのに/おれは愚鈍のままここで止まっている/薄っぺらにしている/貧しくしている/
8) なんだろうねえ/おとうをひょいと思い出している/会いたくなっている/涙が落ちそうになっている/もうすぐ会えるのかなあ/そういう予兆なのかなあこれは/
9) 会ったらどう言ったらいいのだろうねえ/久しぶりだと言えばいいのだろうか/元気でいたかと言えばいいのだろうか/無言で抱きしめ合っているだけだろうか
今日のわたしの即興詩 2 「父という青い海原」
1) 父を覚えているか/覚えているとも/父に呼び掛けてみる
2) 父に愛されていたか/愛されていたとも/父に呼び掛けてみる
3) いまも慕っているか/慕っているとも/父に呼び掛けてみる
4) 遠い海原がある/海原があっても/父に呼び掛けてみる
5) 青い海の向こうへ/向こうへ向こうへ/父に呼び掛けてみる
6) 父を超えて行けるか/超えては行けない/父に呼び掛けてみる
今日の即興詩 「美しく生きていたい」
1) うつくしい/おんなの人を/うつくしく見ている/やすらいだ/おんなの人を/やすらいで見ている/
2) あかあかと/射しこんだ日が/あかあかとしている/ほんのりと/染まった頬が/ほんのりとしている/
3) おちついた/おんなの人だ/おちついた春の日/あたたかな/雛の節句だ/あたたかな春の日
4) うつくしく/生きていきたい/うつくしく流れよ/ひそやかな/今日の思いよ/ひそやかに流れよ
5) ふっくらと/ふくらむ空が/ふっくらと広がる/おだやかに/思う思いが/おだやかに広がる
8
(これは1,2,3,4,5,6,7から続いています)
苦患(くげん)とは、仏教語で、苦難のことです。苦悩のことです。わたしの苦難のことです。わたしの苦悩のことです。百世を生きて来たその無間の、変わることのない悪業煩悩。それをそのまま内蔵内包したわたしが、悪果、煩悩果を現世に於いて、当然の帰結として、受けています。
業は引き受けるとそこで消えて行きます。悪業も善業もそこで消えて行きます。また新しい業に変わっていきます、新しい原因を創造していきます。
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昨夜から今朝に掛けてわたしは以上のようなことを考えておりました。わたしの描出です。曲論です。正当性はありません。
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(これは1,2,3,4,5,6から続きます)
忝(かたじけな)くも観世音、無間(むげん)三途(さんず)の中にても、代わりて、苦患(くげん)を受けたまふ。 「観世音御和讃」より
大乗仏教の教えでは、あなたも早く早く観世音菩薩になって、協力者になりなさいと説いています。己の自利、我愛に執着をしないで、利他利生に回りなさいと説いています。このお経では、己の行くべき方向性が指し示されています。
観音様お一人にわたしの悪業の苦難を肩代わりさせているのは申し訳のないことであります。
7
(これは1,2,3,4,5、6からの続きです)
仏道の教えでは、観音様の慈悲の実践を説いています。わたしも観音になりなさいと説いています。慈悲の実践をなさいと説いています。
しかしわたしは、ひたすら、代受楽を受けています。この世でも代受楽、あの世でも代受安楽に甘んじていられます。まことに相済まないことであります。申し訳のないことであります。いまだそれだけの力しかないのであります。利生利他が実践できていないのであります。
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(これは1,2,3,4、5から続いています)
忝(かたじけな)くも観世音、無間(むげん)三途(さんず)の中にても代わりて苦患(くげん)を受けたまふ。 真言宗経典「観世音御和讃」より
この世にあって苦患を受けておられる人もおられます。受けるべき苦を此処で早くも引き受けておられる人もいます。これで観世音菩薩の受ける代受苦が少なくてすむことになります。引き受けるべき苦を、現世にあって自らで引き受けているからです。
苦を己に引き受けるという実践は、利他の実践に繋がります。苦を多くの人が引き受けています。楽を受ける代わりに苦を己に引き受けておられます。己に苦を引き受けて、他者に楽を差し上げておられます。これは観世音菩薩に等しい慈悲です。慈悲の実践です。
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そういう慈悲の実践をなさっておられる方は輝きを発生されます。呻きながら苦しみながら、向上に向かわれます。
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三途:「さんず」 ① 悪業を為した者が死後に赴く三つのあり方。すなわち、猛火に焼かれる火途(=地獄道)と互いに相食む血途(けちず=畜生道)と、刀剣杖などで迫害される刀途(=餓鬼道)。② 三悪道。三悪趣。③ 三途の川の略。
三途の川: 人が死んで7日目に渡る川。冥土への途中にある川。川の中に瀬があって、緩急を異にし、生前の業の如何によて渡る場所を異にする。
三途の闇: 死後の不安。または死。三途の黒闇。
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こういうところに観音様が現れ出てくださいます。そうでないとわたしたちは救済にあずかれません。仏教ではそう説いています。安心を授けようとしています。