<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

仏教経典を一人で読んで一人にこにこしていればいい

2019年02月23日 13時46分40秒 | Weblog

わたしは仏教徒である。何宗かと問われるだろうが、宗派にこだわりを持つほど熱烈ではない。僧でもない。仏さまの教えを聴いていれば、それでいいのである。

宗派の活動にも与(くみ)していない。無活動である。利他の実践活動をしていない。だから、大乗を名乗れないだろう。一人乗りボートの仏教徒である。威張れたことではない。たくさんの人を乗せて彼岸に渡して行く大型旅客船は運転できない。

法華経を読んでいるなら、それを教えの根本聖教として読経する法華宗や日蓮宗や、天台宗、禅宗かと問われるが、そうでもない。法華経の経典を一人でにこにこして読んでいればいいのである。間違った読み方をしているだろう、きっと。

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仏像は蓮の臺(うてな)に座しておられる

2019年02月23日 13時42分14秒 | Weblog

赤い蓮華は「パドマ」。睡蓮は「ウトパラ」で、青蓮華。「優鉢羅華(うばらけ)」もしくは「烏怛鉢羅(うどんぱら)」と訳される。

阿弥陀経には「白色白香、赤色赤香、青色青香 黄色黄香」とある。蓮の色と香りはさまざまであるらしい。朝には咲いて夕方には花弁を閉じる。そしてまた翌朝に開く。

仏さまの像は蓮の臺の上に座しておられる図が多い。やはり仏の悟りを象徴してあるのだろう。奈良の東大寺の大仏だって蓮弁が台座になっている。観音様方も蓮の華を片手に握られている。

 

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煩悩は、仏教では、否定されていない

2019年02月23日 13時34分29秒 | Weblog

白蓮華は、その根を淤泥に沈めて、根を張って、そこから養分を吸収できる。そしてその淤泥には染まらない。清浄な色を見せて、清浄な香りを漂わせる。究極の仏性・法性を象徴する。

無明煩悩が淤泥である。煩悩の「煩」は体を苦しませるもの、「悩」はこころを苦しめるもの、らしい。

では、煩悩を否定してあるかというとそうでもない。その煩悩に根を張って、妙なる法の華を咲かせるのである。否定されていたら、全煩悩のわたしは、行く術(すべ)、助かる術がなかった。

 

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わたしは法華経を読む 読むとおだやかになる

2019年02月23日 13時19分53秒 | Weblog

わたしは妙法蓮華経(略して法華経)を読む。読むとおだやかになる。にっこりする。

法華経は、サンスクリット語では、サッダルマ・プンダリーカ・スートラ。プンダリーカは蓮の華。スートラは縦糸横糸で編まれた経。ダルマは法。サッダルマで妙法。正法とも訳される。「妙」は、言うに言われないほど神秘的で美しいこと。優れていること、巧みなこと。不思議であること。絶妙であること。言語表現を超越していることか。プンダーリーカ、白蓮華は、「分陀利華(ふんだりーか)」「妙好華(みょうこうげ)」とも訳されている。

仏の智慧である仏法は、そういう智慧のないわたしには理解不可能のはずである。ただただ絶妙なはずである。理解を超えている教えを、理解しようとこころみるのである。それでサッダルマなのかもしれない。

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如来の分別はわたしにも働いているだろう

2019年02月23日 13時16分04秒 | Weblog

如来がよろこびで満たそうとされたので、人々の心はよろこびで満たされたのである。

わたしのこころをよろこびで満たそう満たそうとされている如来が、そこにおいでになるのである。それを感知して、わたしのこころがよろこびで満たされて行くのである。そういう如来の分別が働いていたのである。

平等を重んじられるのが仏さまである。だから如来の分別は、わたしにも働いているだろう。

 

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人の心はよろこびで満たされた

2019年02月23日 13時11分26秒 | Weblog

如来は能(よ)く種々に分別して、巧みに諸法を説きたまふ 言辞は柔軟にして、衆の心を悦可せしめたまふ。

釈迦如来はさまざまな思慮を宜しく深くされて、分かり易いようにこの世の真理、仏法をお説きになられた。お使いになるお言葉は柔和で優しい故に、説法を聞いている人の心はよろこびで満たされた。

わたしのこころも、そうありたい。あらしめられていたい。法のよろこびに満たされていたい。

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衆生の心を悦可せしめたまふ如来がおられる

2019年02月23日 10時35分52秒 | Weblog

今日は此処を味わってみたい。「悦可衆心」とは説法聴聞の人の心を喜びで満たされるということである。わたしのこころをよろこばしてあげようという如来様。如来様がおられるのである。

如来能種々分別 巧説諸法 言辞柔軟 悦可衆心       妙法蓮華経「方便品第2」より

 

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今日はサッカーの「サガン鳥栖」チームの初戦です

2019年02月23日 10時05分25秒 | Weblog

今日はサッカーの「サガン鳥栖」チームの初戦です。鳥栖駅の前のスタジアムが試合会場です。監督はカレーラス監督。語感がカレーライスとよく似ています。監督になって初めての試合です。娘は応援をしています。後半で移籍してきた花形のトーレス選手もいます。昨年は苦戦を強いられていました。それでも、加わったトーレス選手の活躍で、やっとJ1に残留できました。今朝の新聞はこの応援記事に2面半を割いています。わたしは去年一度だけスタジアムに足を運びました。

 

 

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猫が野鳩を捕まえて来ました

2019年02月23日 09時55分39秒 | Weblog

猫がベランダの濡れ縁に来ています。舐め回して全身の毛繕いをしています。後は日向ボコを楽しんでいます。ときどき、ニャアニャアと鳴いています。甘えた声音です。かまってほしいのでしょう。わたしも鳴き真似をしてあげます。わたしは餌をあげたことはありませんが、首の下に手をいれて撫でてやったりはしています。この猫が野性に帰ることがあります。我が家の庭に遊びに来る野鳩を捕まえました。野畑の胸毛が散乱しています。次の日に狸が来て残らず食べてしまいました。狸は人間を恐がる素振りもありません。

 

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昨夜は客人が泊まりに来ました

2019年02月23日 09時46分25秒 | Weblog

昨夜は客人が泊まりに来ました。娘の仲のいい友人です。日本酒を携えて来てくれました。彼女は酒を嗜みます。久闊を叙して乾杯をしました。家内が刺身を買って来ています。生牡蠣はバター焼きにしてくれました。我が家の野菜をふんだんにつかって、上等の佐賀産牛で、すき焼きをしました。ラストは、わたしが昼間に作っておいたカレーライスです。さすがにみな腹一杯になりました。わたしはお風呂に温まってすぐに自室に籠もりました。夜遅くまで談笑の声が聞こえていました。(佐賀牛と佐賀産牛は違います)

 

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