<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

後は寝るばかりよ 寝るばかりよ

2019年06月04日 20時14分46秒 | Weblog

(か)

後は寝るばかりよ。寝るばかりよ。わたしが寝るまでを導いてくださいました善意宇宙さまに、お礼を申し上げます。わたしは傲慢の申す通りに一日を傲慢に過ごしました。一日の我が傲慢をお許し下さいませ。

(き)

去年の梅酒をお湯割りにして飲んでみた。上品極まるあじわいだ。香もいい。甘すぎない辛すぎない。ウイスキーもワインも焼酎も、敵わない。1年寝かしただけで、こんなに、いい出来上がりに到着するのか。

(く)

もっとましな生き方はないか。へ、ありませぬ。もっとましな生き方などはありませぬ。今日過ごしたわたしの生き方で、わたしは最高でありました。不平を宿さないでいると、それはいつも最高の味わいとなりまする。

(け)

不平を抱けるほどの我か。その句を掲げておりますと、大概の傲慢が尻尾を垂らしまする。頂くものを頂いている我が身で、その我が身の過分すぎる暮らし方で、不平は抱けるはずはないのであります。

(こ)

不平を抱けるはずもない人間で有りながら、それでも傲慢といっしょに連れ添って暮らしておりまするから、不平は口をついて出て来るのであります。申し訳のないことであります。ぶつぶつぶつぶつ、蟹の口元の泡ののような傲慢と不平の数々であります。

 

 

 

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暮れて行く 暮れて行く 暮れて行く

2019年06月04日 18時53分45秒 | Weblog

(あ)

暮れて行く、暮れて行く、暮れて行く。空が暗くなる。地が暗くなる。わたしのリビドーが朝昼を通して、一日の終わりに繋げ得た。安堵を覚えている。

(い)

夕方は、梅酒造りをした。一段階一段階、家内の指導を仰いで。その前に、昼間、梅酒用角砂糖とホワイトリカーを買いに行って来た。どちらも安くない。ぬぬぬ、だった。

(う)

結局は2瓶になった。捨てられないからだ。それでも余った。余ったものは、明日、どちら様かにお分けしなければならない。因果だ。なまじ、寒暑風雨一年の、梅さまのご苦労を知っていたがために。捨ててしまえない。

(え)

夕食はお粥を作ってもらって、食べた。茶粥にして。赤紫蘇梅干しの梅と塩昆布を加えて掻き混ぜた。いやあ、おいしかった。あっさりしてて、おいしかった。これで腹具合も改善されるだろう。

(お)

おい、今日に文句があるか。へ、文句はございませぬ。文句を言ったところで、ふ、どうにでもなるまい。へ、どうにもなりませぬ。どうにもならぬなら、文句放下してしまうのが最上の策。放下すれば軽くなりまするか。

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そこに面白みを見出している これも人生の面白みだ

2019年06月04日 18時40分27秒 | Weblog

叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな      夏目漱石

この句のよいところ。それは木魚の観察だ。えらく突き放して観ているくせに、そこに面白みを見出している。人生の面白みだ。ほう、こんなこともあるのか、と風景の一コマを愛でている。叩いているのは僧。薄暗い禅堂でお経を上げている。叩かれた木魚をぽこぽこぽこと跳ねている。夏の昼間。藪を抜けて、解放されている扉から蚊が入って来て、こともあろうに木魚の穴を、ちゃっかり住処にしている。お経は長い。木魚の中の蚊が、耐えきれなくなって飛び出して来た。僧の後ろに控えている漱石が、くすっと笑みをこぼした。あの神経質な文豪が。

 

 

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美味い飯にでもありついた帰りなのかもしれない

2019年06月04日 16時27分04秒 | Weblog

蹴上げたる鞠のごとくに春の月     種田山頭火

久しぶりに山頭火の句に触れた。で、どう? 蹴上げる鞠は、しっかり膨らんでいなくてはならない。弾まない。大空まで上がって行くには、随分と力強く蹴上げなければならない。それも内部が満ち満ちで充実していなければなるまい。それが、春の月になって山の上に出ている。そう見えたのだ。日が暮れて一日を終わる。のっそりしているが、我が内に力が湧いて来ている山頭火がいる。珍しい山頭火だ。美味い飯にでもありついた帰りなのかもしれない。

 

 

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互いは互いの反転に 力を貸している

2019年06月04日 16時16分47秒 | Weblog

生は一時の位なり、死も一時の位なり。道元禅師はそう考えておられたようだ。どちらも、どちらの属性にない、のだと。生は生の完結の姿。死は死の完結の姿。互いを依拠し合わず、独立自尊。生が明るくして、死が暗いということではない。そういう色眼鏡をして見ることもあるまい。互いは互いの反転に力を貸している。それでぐるりと一回転をする。

 

 

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いや、ご立派 いのちの勢いで満ちている

2019年06月04日 16時15分02秒 | Weblog

(に)

いつのまにやらお昼寝をしてた。とろとろとろり、と。そう。それはよかったね。下痢の下腹が治まったってことじゃない、それって。そうだね。痛まなくなっている。

(ほ)

家内が、胡瓜を探し当てて来て、驚き声で報告に及ぶ。胡瓜も、地べたにはいつくばって、寝ていたらしい。それで見えなかったらしい。今夜の食卓には、胡瓜のサラダが加わりそう。

(へ)

外で、それを右手に掲げて見せてもらう。見せてもらった。いや、ご立派。命の勢いで、はち切れている。<宇宙全体がそうである>という確信に、しばし満ちる。

 

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釣り合うには二つの方がいい 喧嘩もするけれど

2019年06月04日 15時18分11秒 | Weblog

(い)

今夜の食事は粥にしようかな。そうだね、それがいいよ。一人で会話してみる。たまにはいいじゃん。お腹をいたわってあげても。だね。だね。意見が一致する。

(ろ)

人にはハイヤーセルフとロウワーセルフと二人のセルフがいて、左右を固めている。空へ昇って行こうとするセルフと、その逆方向の、地へ降りて行こうとするセルフと。目立って耳だって足だって手だって、鼻の穴だって、二つあるように。そうして、口が一つ開閉している。

(は)

釣り合うには二つの方がいい。これでセルフコントロールをする。ハーモニーがとれる。でも、喧嘩もする。喧嘩は、しかし、仲直りを促すためにある、とも考えられる。

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雷さんの鳴き音は 昔も今も変わらない それがふっとおかしくなった

2019年06月04日 15時07分21秒 | Weblog

外気温が下がってきたようだ。風が窓から吹き入れて来る。といいながら、晴れている。日向雨がときおりポツリポツリ降り出す。さっきは雷さんも、鳴った。鳴き音のごろごろごろは、昔も今も変わらない。それがちょっとおかしくて、笑ってみる。この100年で住む世界の様相は一変した感がある。生活のありようも日々刻々新しくなって行く。なのに、なのに、神鳴りさんはこの100年ちっとも変わらない。徹底して保守派だ。相も変わらず、「ごろごろごろ」のワンフレーズである。変化系バージョンの「がらがらがら」も、ほぼ同じ調子である。当たり前だよねえ、人工的じゃないんだから。

 

 

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これは数多くあるわたしの弱点の、その上位に来る弱点である

2019年06月04日 09時56分22秒 | Weblog

下痢をする腹である。外出時にそれが気になる。冷房を掛けたらお腹が冷える。お腹の前に足柄山の金太郎のように分厚い腹掛けをして、お腹を冷やさないようにしているが、今日はそれで防御にならなかった。大川市のエツ料理屋さんまで我慢に我慢を重ねた。顔面蒼白になっていたはずだ。やっと間に合ってほっとした。帰りがけにも同じ事が起きた。知り合いの家の門を叩いてトイレを貸してもらった。我が家に帰ってきてまた駈け込んだ。それから半時たつが、まだじくじくして痛い。お腹が弱い。此処がわたしの弱点である。幾つもあるが、その幾つかのうちの上位に来る。

雨が降り出した。と思ったらいつのまにか止んでしまっている。客人は帰られた。携帯に電話が入って、急用が入った。急いで帰って行かれた。ゆっくりとしていかれなかった。こんなこともある。

 

 

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それではバランスがとれていなように感じるのだ

2019年06月04日 09時45分33秒 | Weblog

老いたなあ。よくもここまで。父は70歳で他界した。わたしはそこを越した。何だか相済まない。立派だった父よりも長く生きていることが恥じられる。我が家の座敷には父の写真が掛かっている。その隣には叙勲の額が据えられている。父は終生勉強を怠らなかった。勤勉に仕事に邁進した。父の助けを借りに人が集まって来た。人様の役に立つ種類の人間を生きていた。

わたしのようなぐうたら隠居、ごそごそ引き籠もりなんてしていなかった。そのわたしの方が長生きを果たしている。それではバランスがとれていないように感じるのだ。

 

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