まもなく11時。というのに、なんだ。室内の気温で28℃。湿度70パーセント。熱帯夜。部屋は網戸にしているが涼風は吹き込まない。無風。暑い。じわじわ汗が滲む。半ズボンと半袖シャツ一枚きり。フライパンの炒り豆になりそうだ。
昼間はなんと、外気温が38℃に達していた。暑くても逃げられない。此処はこの世の地獄か。まだ6月中旬である。
まもなく11時。というのに、なんだ。室内の気温で28℃。湿度70パーセント。熱帯夜。部屋は網戸にしているが涼風は吹き込まない。無風。暑い。じわじわ汗が滲む。半ズボンと半袖シャツ一枚きり。フライパンの炒り豆になりそうだ。
昼間はなんと、外気温が38℃に達していた。暑くても逃げられない。此処はこの世の地獄か。まだ6月中旬である。
よくもまあ、あの細い蔓で、こんな大きな実をつけるなあ。西瓜さんは偉いよ。感心するよ。
感心している時間をもらう。これでいい。圧倒的に圧倒されている。これでいい。
4
もう暫くしたら外に出て、庭や畑の植物たちに水撒きをしてあげよう。我が家のは井戸水である。ひんやりしている。彼らは喉が渇いているだろう。たっぷりたっぷり実を上げよう。外に出たら、蚊に攻められる。蚊取り線香を提げて行かなきゃ。
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家内に珈琲を淹れてもらった。オンザロックにして。赤く熟れた杏が冷蔵庫で冷えていたので、これをがぶり。ちょっと酸っぱいところがあって、顔が歪んだ。
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広い広い平野の、田んぼに水が張られて、炎天下、大型の田植機が発動していた。そうなんだ、今は田植えの季節だったんだ。一昔前の、一家総出のあの田植えの風景は見当たらない。アジサイが咲いているのを、あちこちで見つけた。
1
今日は午後からスマホの初心者教室。2講座も受講した。「ネットの使い方」と「地図の利用法」。受講者は6人、皆、高齢者だった。丁寧に教えてもらった。ああ、面白かった。手取り足取りの講師先生は、さぞや、気疲れをなさっただろう。
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時代はこんなに進んでいるのかと思って、目をぱちくりさせることが屡々。ううううん、ついていけるかな。折角聞いても右の耳から入って左の耳を出て行った感じ。どこまで活用できるのだろう。
3
帰りに車で外気温を計測したら38℃になっていた。なんだこりゃ、だった。もう真夏だ。雨は降らない。26日から雨になり出すそうだけど。遅い梅雨入りである。夕方4時半の室内の気温ですら30℃ある。こんなに暑いのなら、一日太陽に照らされた植物たちは、逃げても行けないで、焼け焦げて、苦しかっただろうなあ。
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梅の実を摘果するときに、枝ごと、ノコギリで切り落としてしまったので、ここに空間が生まれた。ぽっかりした。
2
で、その周辺一帯が、日の光が射し込んでくる畑に変貌した。そこで、トマト苗を移植してあげた、空の見えるこの空間の、空き地に。十分な間隔を空かして、6株も。
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このトマト苗は、脇芽を摘んだのを、捨てずに、土に埋めて<挿し芽>していたものである。毎日、水を掛けてやっていたら、すくすくと育って、花まで着けるほどになった。そこで、自立させることにしたのだ。
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植物は再生能力を持つ。一部で全体になれる。これが凄腕だと思う。人間には真似が出来ない。水を、その後、たっぷりと撒いておいた。なんだか、久しぶりにいいことをしたような感覚がある。錯覚なのだが。
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数日後に、肥料をしておこう。石灰と牛糞と油粕を。あ、これは、そして、カラスに提供しよう、赤い実が熟れたなら。
「ホトトギスが鳴いている」
渡って来たホトトギスが朝に昼に夜に鳴いている。「形見とて何か残さむ春は花夏ホトトギス秋はもみじ葉」。これは良寛禅師の歌。形見というのは、死んだ後に、その人が生きたことを知る手掛かりにするべきものである。
子や社会に残す遺産など形があるものもあるが、無形のものもある。形見分けもする。人は名を残したがる。残さないとした良寛禅師だが、彼ほどその名をいつまでも残した人は少ない。幼い子どもたちでも慕っている。人生の師として老いた人にも敬慕されている。
でも、彼自身は死後への執着をあっさり捨てたのである。死後があろうとなかろうと、それで浮かれたり苦しめられたりするところはなかったのである。
一個人としての「私」を終えても、宇宙全体として生きているということを了知していたからだろう。
春は花、夏はホトトギス、秋はもみじ葉が地上を楽しくしてくれる。そういう自然界と同化していられる幸福。それを現象界の生死を超脱して、人は誰もが共有している。
そうであれば、箇の形骸にしがみつくことは無用なことである。無用なことに、死後執着して長く翻弄されることはない。
年々歳々、桜の花は美しく咲き、ホトトギスは渡って来て鳴く。もみじ葉は秋を染める。それで十分である。私の無用な心配を解き放てば、世界は皆自足している。
ホトトギスの良寬様の歌からそういう受け取りをしてみた。私の一解釈である。
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これは今朝のS新聞の読者の欄に載ったわたしの投稿作品である。
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世界は皆それぞれにそれぞれの自足を得ているのに、心配顔のわれわれは、<自足していない>と思ってしまうのだろ。<不足している>と思ってしまうのだろう。それで、わたしの形見を残して、不足分を補おうとする。つまりが無用のお節介を焼きたがるのだ。
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このページでは、改行をすると、一行が空いてしまう。新聞では行間はなかった。
1
<あかさあかさあかさ>は<あかるさあかるさあかるさ>。明るい朝が来ている。明るくなっている。明るくなったので朝なのだ。ところが、そのあふれている<明るさ>に目が慣れて、軽んじてしまっている。軽んじても軽くなっているわけではない。この事実は重々しい。<あかさあかさあかさ>と連呼してみる。言葉に出して表現してみる。すると、ホトトギスが鳴いているのが聞こえて来た。
2
直指人心 見性成仏
じきしにんしん けんしょうじょうぶつ
人の心を直指して、性の成仏したるを見よ。
・・・禅語をこんなふうに読んでみた。
3
成仏は完成である。完成は到着である。目標地点に到着している自分である。完成しているわたしを見る。目標地点に到着している自分を見る。此処に到着して生きている自分を見る。直指(じきし)は、<まっすぐに指さしている>ことである。<人心>は人の中で動き出そうとしている<動き>である。<性>は仏性のことである。
4
人に生まれようとして、人に生まれてきたのである。完成をして生まれて来ているのである。ではその完成に浸っていていいではないか。
5
これから人になるのではない。人になることは完了しているのだ。それを不服にするな。それを軽視するな。侮るな。侮って、人になったのではないのだから。
6
<仏になる>というのは、出発地点にいるときの、希望であり期待であるが、<仏である><仏性を頂いて生きている>というのは、そこに到着地点に到着しているときの、到着の自覚であり、完成の満足である。
7
不服にするな。現在を不服にするな。現在を不服にすれば、満足がそれだけ遠退いて行ってしまう。
8
朝が来ている。明るい朝が来ている。明るい朝をよろこぼうではないか。朝には朝の明るさをよろこぼうではないか。明るさを不服にするな。明るさを不服にしていると、あらゆることが不服の対象になってしまう。
9
随所為主。随所に主と為る。主人公として活動する。畢竟成仏を今此処にして、生き生きと明るく活動をする。
10
さ、外に出てみよう。畑を一周してみよう。万物もまた随所随時に主人公となって生きていることだし。<吾は唯、足るを知る>のみ。明るい朝の、世界の完了を自覚しているのみ。