形見とて何か残さむ 春は花 夏ホトトギス 秋のもみじ葉 良寛禅師
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形見というのは、「形見分け」の語があるように、死んだ後に、その人が生きたことを知る手掛かりにするべきものである。形があるものもあるが、ないものもある。子に残す遺産、社会に残す人物評価などもこれに含まれようか。人は名を残したがる。そういう面では、この作者良寛禅師ほどその名を残した人はそう多くはあるまい。幼い子供たちでも慕っている。老いた人にも人生の師として敬慕されている。
でも彼は、彼自身は、そういう死後への執着を捨てたのである。死後があろうとなかろうと、それで苦しめられるところはなかったのである。自尊心を沸かすことも、恐れることもなかったのである。
個体としてのわたしを終えても、「全体として生きている」ということを了知していたからである。春は花となって生き続け、夏はホトトギスとして初夏を告げ、秋はもみじ葉として全山を赤く染める。そういう自然界と同化していられる幸福を覚えていられたからである。
個の形骸にしがみつくことは無用なことである。無用なことにいつまでも翻弄されることはない。それよりは、切り替えて、新しい変化に生き生きと生きていた方がいい。溌剌としていい。爽やかでいい。死後を平安にしていられることは、眼前の桜の花を見ていれば分かることである。ホトトギスを聞いていれば分かることである。もみじ葉の美しさ鮮やかさがそれを指し示していてくれる。