お正月、1月9日、我が村里は積雪した。
その写真がこれ。
隣家の庭のツツジの茂みが押し潰されそう。
鹿島祐徳稲荷神社は、京都清水寺のような櫓舞台の上に、見上げるように別宮が建っている。
そこまでは階段を行く曲がりにも曲がりつつ上る。
櫓舞台も赤い色をしている。
わたしも右手に杖をつきながら、左手で手すりにつかまりながら、ゆっくり時間をかけて、上り詰めた。
食うものがおいしい。
これが一番だよなあ。
これは里芋と大根を鶏肉で煮付けてもらったもの。
大根も里芋も我が家の畑に育ったもの。
さっきの、不断草は、我が家の畑に育った野菜。
胡麻合えは、素朴な味がしておいしかった。
不断草は寒さに負けず、青々として、威勢がいい。
冬野菜はたくましいなあ。
これを食べたら、こちらも元気百倍になりそうな気がする。
夕食に不断草野菜の料理をしてもらった。
胡麻合えを。
葉っぱの緑が濃かった。
久しぶりで、おいしかった。
こちらは人間国宝、柿右衛門の陶板画。
これも祐徳稲荷大社の中門の内側に飾られていた。
行く人の目を惹いていた。
仏陀からも悪が否定されているとしたら、悪の塊のわたしはここにはおられません。もちろん安養界には進んでいけません。
(人間界の思想では悪は倫理道徳違反、社会正義違反として否定されているにもかかわらず、仏陀はそうしていないのです)
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一生、悪を造って、それでいながら、濁流を流れ下って流れ下って、弘誓という大きな海に出遭うようにしてあるのです。仏の大きな海に至り着くようにしてあるのです。
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川は堰き止められていないのです。流れていけるように川を掘ってあるのです。その川が海まで続いているのです。
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ああ、有り難いなあと思います。経典はみな「わたしをよろこばせるために」説かれています。それがそうと受け止められたら、ただもう赤子のようにええんええんと泣くしかありませんよね。
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果 「正信念仏偈」より
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わたしはお坊さんではありませんから、わがなりの読み方しかできません。そういうむちゃくちゃな読み方をしてよろこびをふくらませます。今日もそうです。読者の皆さんは読者の皆さん流に読んでみてくださいね。
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いっしょうぞうあくちぐぜい しあんにょうがいしょうみょうか
一生 悪を造るも、(阿弥陀仏の)弘誓に値(もうあ)いぬれば、安養界(=阿弥陀仏の建設された極楽浄土)に至って、妙果を証せしめらるるなり。
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一生を生きて、その間中、ずっと悪を造っているのはこのわたしです。そうしているのは何故なのか。わたしが強欲の塊だからです。煩悩の塊、無明の塊だからです。だから、善に近付こうとしても、作善ができるわけがないのです。
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弘誓(ぐぜい)とは、阿弥陀仏の建てられた誓願のこと、本願のこと、約束ごとです。本願には「わたしがあなたを救います」「あなたを救って安養界に至らしめます」と誓われています。「あなた」とは衆生の一人一人のことです。ですから、経典を読んでいるこのわたしのことです。
「その通りになる」というのが「妙果」です。「証妙果」は、ですから、その通りになったことが分かる」ということです。「救われてお浄土に生まれ得た」ということを指しています。でも、これはわたしの解釈です。
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わたしの手柄ではないのです。妙果を証明し得たのは、わたしが作善したからではないのです。わたしはただ一生涯、造悪して来ただけなのです。すべては阿弥陀仏の采配です。阿弥陀仏の仏智とお慈悲のハタラキに依拠しています。
この阿弥陀仏のハタラキのことを「おはからい」と呼んでいます。わたしの計らいを超えているのが「おはからい」です。わたしは欲望でいきていますから、計算尽(づ)くですべてを利己的に計らっています。
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虫が良すぎるなあと思います。一生涯悪を造って暮らしたのなら、地獄界に堕ちていくしかないのです。わたしは三悪道に堕ちて餓鬼となるよりほかはないのです。偽善をしたことはありますが、それは仏智にかなうほどの善とはほど遠いのです。
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これは危険な、異端的発想ですが、すべては仏に遭うようにしてあるのです。これが「値(もうあ)いする」ということです。仕向けられて仕向けられて遭うということです。悪は否定されないのです。法の中では否定されていないのです。悪の濁流もみな仏海に流れ着いて行きます。
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悪を造り続けて、失望して絶望して、仏様のお慈悲に出遭って、そこであるときふっと仏様を仰ぐようになって、「信」が湧き起こって、反転を遂げて行くように仕向けられているのです。 我が造る悪がすべてのスタート地点になっています。「転」は、回転しながら錐揉みしながら、ずずずずずと仏智に突入をするアクションを指しています。
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最後の最後に、わたしたちは一人残らず、「証妙果」ができるのです。これをよろこばないでいられるでしょうか。このわたしを「安養界に至らしめる」というのが弘誓の中身です。阿弥陀仏が建てた弘誓が悉く実現していくのを見守っていればいいのです、わたしたちは。
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これがわたしの読み取った厚さ1ミリの解釈です。これは頭だけの理解です。腹も足の裏もまだ分かっていません。一生涯、仏法(=仏の教え)を疑って疑っているばかりです。