設(たと)い天上人間地獄鬼畜なりと雖(いえど)も、感応道交すれば必ず帰依し奉(たてまつ)るなり。已に帰依し奉るが如きは生生世世在在処処(しょうしょうせせざいざいしょしょ)に増長し、必ず積功累徳(しゃっくるいとく)し、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就するなり。
曹洞宗経典「修証義」より。
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此処を聞いて、お爺さん、にこりとする。
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にこりは、いい。
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「感応道交すれば」は条件文なのに、いかにも確定したかのように受領したために、この「にこり」が起こったのである。早とちりである。疑似にこりでも、それでも味わえるのである。
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帰依は、何に帰依するか。仏法僧に帰依するのである。仏道に帰依するのである。帰依して落ち着くのである。落ち着いて安らぐのである。自己安定が万物の安らかな調和に入り込むのである。
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「天上人間地獄鬼畜」はわれわれが経巡る輪廻六道のことである。果てしもなくわれわれは、怒りと憎しみのこの六道を輪廻して、解脱が得られない。(この六道を離れたところに、阿耨多羅三藐三菩提(=無上正等正覚=涅槃寂静)の仏界が訪れる)
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仏と仏法と仏道の人とに、感応道交(かんのうどうこう)するとそこで帰依が成就する。成就すれば、何処にいてもどんどんどんどん帰依の深さ高さは増長して、生まれても死んでもどんどんどんどん功徳が積み上がり膨れ上がり、ついには仏陀しか味わえない阿耨多羅三藐三菩提の境地に参入するのである。
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経典に接することは仏陀の声を聞くことに等しい。仏陀の声を聞くことが感応であり道交である。もちろん曹洞宗は座禅を重んじるので、座禅が感応道交の場である。念仏宗は念仏がその感応の場である。
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帰依を促す仏法電波があまねく飛んでいるので、何処にいてもいいのである。何をしていても良いのである。耳を立てていれば感応するのである。仏道の道と交われるのである。導かれて導かれているのである。
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とまあ、このお爺さんは、いつもこんなふうに軽はずみな読み方をして、それで嬉しがるクセがついているようだ。