<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

今夜は3回目の切り干し大根作り。

2025年03月13日 20時58分36秒 | Weblog

こんばんは。夕食を済ませました。その後、大根を細く小さく切ってカンコロ作りをしました。中くらいの大根を10本、昼間に畑から抜いて来ていました。さっきまで辛抱強く作業をしました。

大根がもうすぐ花を着けます。すると花を着けるのにすべてのエネルギーを注入している大根は、もう、中がおげてスカスカになってしまいます。食べてもおいしくありません。

いまのうちに切り干し大根=カンコロを作っておけば捨てずに済みます。捨ててしまうのはもったいないのです。

* 

明朝、干し物専用籠に列べて干すことにします。3日間ほど干しておけば、できあがります。これで1年中、大根がおいしく食べられます。

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椎茸の生えた原木を友人から頂いて帰りました。

2025年03月13日 10時28分34秒 | Weblog

10時半になりました。そろそろ炬燵を出ようかな。着替えをして外に出ていこうかな。

先日友人宅を訪ねたら帰り際に、椎茸菌を打ち込んで2年目の椎茸の原木を頂きました。でっかいのを2株も。数本の椎茸が立っています。

日陰に置いています。からからに乾燥していたので、帰宅後直ぐに水遣りをしました。2度目の水遣りをすることにします。

椎茸菌を買いに数箇所ホームセンターを回りましたが在庫なしでした。もう時機を逸しているのかもしれません。

見つけたら、彼に届けて、彼の家の回りに倒してあった新しい椎の木樫の木に、菌を打ち込んでもらおうと目論んでいます。

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手取り足取りの仏さま。

2025年03月13日 10時00分00秒 | Weblog

阿弥陀来迎図。山越えの阿弥陀来迎図。それを思い浮かべています。

来迎(らいごう)は、文字通り、来て迎えること。迎えに来て下さることです。

極楽浄土がどこだか、どうやって行き着くのか死者には分からないのです。

そこで、阿弥陀如来が多くの多くの菩薩衆といっしょに、死者のもとまでお迎えに上がられます。

この阿弥陀如来の乗り物に乗ればもう安心です。死者はなにもすることがあありません。すべてをお任せしていればいいのです。すると、そこで、死者のほっぺたが安堵の林檎の色に染まります。

もちろん、行く先は、阿弥陀如来が建設された仏国土=極楽浄土です。手取り足取りの仏さまです。

阿弥陀様が、無明生死するわたしのために、始めから終わりまでご苦労をなさって下さいます。一切合切が謝金礼金なしです。

ほんとうは、わたしたちは、死ぬことなんてできないんです。死なされるのです。「死ぬ」は自動詞にしてありますが、他動詞です。わたしたちの死を主宰するのは仏さまです。次のスタート(浄土往生・畢竟成仏)を促せて下さるのです。

山里の老い耄れお爺さんは暇だから、そんなことこんなことを考えています。さっき窓のすぐ傍まで、さもさも親しげな表情をして、紋付き鳥のジョウビタキが飛んで来ました。

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ママのエプロンはコアラの育児嚢

2025年03月13日 09時48分34秒 | Weblog

エプロンは育児嚢(いくじのう)なり 夕食を作るママから幼児(おさなご)覗く

山鳩暮風

わたしのペンネーム山鳩暮風は、わたしの大好きな詩人山村暮鳥から2字を無断拝借したものです。相済まぬです。

育児嚢はオーストラリアに住んでいる有袋類カンガルーやコアラについている子育て専用の嚢(ふくろ)のことです。ママのエプロンがこの育児嚢の役割をしています。幼い子供が、夕食の準備をするお母さんのエプロンを、ぐるぐるぐるりと自分の体に巻きつけて、そこからときどき顔を覗かせています。幼児がコアラに似ていますよ。

あはは、あはは、もちろんこれも落選でしたが。この長い長い艱難辛苦を潜り抜けられたら、あはは、あはは、いつかめでたく入選の報に相見えることもありましょう。

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しきりに、しきりにしきりに。

2025年03月13日 08時46分49秒 | Weblog

おはようございます。曇り空が広がっています。まもなく午前9時になるところです。気温は13・9℃あります。日中は16℃まだ上がるそうです。

若(も)しこの呪(しゅ)を誦持(じゅじ)し我が名を称念せば・・・(途中略)・・・・・乃至(ないし)無上菩提を証得す。

「仏説十一面観世音菩薩随願即得経」より。

今朝ふっとこの句、「乃至無上菩提を証得す」が口をついて出て、それで嬉しかったのであります。ふふふっと浮かれたのであります。

「呪(しゅ)」とは十一面観世音菩薩のマントラ、「おんまかきゃろにきゃそわか」のことです。「我が名」とは十一面観世音菩薩のことです。

「若しもわたし(十一面観世音菩薩)といっしょにいたら」の帰結が「乃至無上菩提を証得す」になっています。

「乃至(ないし)」は「畢竟するに」「最後には」の意味合いがあります。「無上」は「この上もない」「最高の」の意。「菩提」は「仏智」「仏の悟った悟り」「菩提涅槃」「涅槃寂静」を指しています。「証得」は「実証して自得する」ことです。

(でもこれはわたしの独自の勝手な読みですから、読者諸氏は自分でひもといてくださいね)

行き行きて、行き行き、最後には仏が得られた悟りの智慧と安らぎに、わたしが到達して、仏の教え、導きの通りになったことをわたしが実感することになる、と。

で、そうなったわたし(涅槃寂静しているわたし)を想像してふふふっとなったのであります。安堵を覚えたのであります。

それまでには行き行きて行き行きます。それでいいのであります。曲がりに曲がり、落ちて落ちて、惑って惑って、紆余曲折していくけれども、ラストにはまごうことなくこの境涯に到達する。仏陀の菩提涅槃に合一する。此処が嬉しかったのであります。

「若し」だなんて、条件を持ち出してありますが、本来は無条件であります。仏は無差別、無条件であります。呪文なんか唱えなくてもいいんであります。その方が、しかし、安心を得るので、安心を得る方法を指し示してあります。

わたし(十一面観世音菩薩)がついているぞ、あなたにはわたしという後ろ盾があるんだぞ、心配は要らないぞ、安心していていいんだぞ、としきりに、しきりにしきりに、それを繰り返して下さっています。

今日はなにをしましょう。山里のお爺さんは思案しています。北の畑へ行って里芋の植え付けをする仕事が待っていますが、腰が重いです。

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