<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

我関せずを押し通すばかりで

2021年02月27日 09時27分26秒 | Weblog

地蔵さまいつも見守りありがとう     伊万里市 牛島隆治さん  川柳入選の作品。

難しいことが書いてあるわけではない。おしきせでもない。命令でもない。小言めいてもいない。

でも、読者の僕は頷けた。素直に受け止められた。そうだよなあ、そうだよなあ、見守って頂いているんだよなあ、と。北風の吹きすさぶ寒い日も、カンカン照りの暑い日も、そこを離れずじっと立って。行く人々を目にして。慈愛の眼をそこに注いで。自己主張を聲高高に叫ぶこともなく。終始無言で。他者に手を合わせているのきり道ばたの石の地蔵さま。こちらもこちら、我関せずを押し通すばかりで、立ち止まってただの一遍も「ありがとう」の声を発したこともない。

見えない百体千体のお慈悲さま、熱いお情けさまに、見守られて見守られて暮らしていながら。

 

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笑顔の人にすれ違って笑顔を分けてもらう。

2021年02月27日 09時08分04秒 | Weblog

春風のやうな笑顔にすれ違ふ      佐賀市 吉川正信さん  

田中南獄選、入選の俳句の作品。今朝のS新聞、読者文芸の。

ああいいなと思う。笑顔の人にすれ違う。会話をしないで通り過ぎてしまう。でも、こちらも嬉しくなっている。すれ違った人の笑顔の、嬉しさを瞬時にそっともらい受けている。

その人を笑顔にさせたのはなんだったのか。句に登場しているのは春風。春の風。そよろそよろと吹いて来るあたたかい春の風。風に、蕾が開くように、こころの扉が開かれてくるのだろう。木々の新芽がほぐれて来るように、こころのうちがほぐれて来るのだろう。

笑顔は偉大だ。すれ違っただけの人をも、こんな気にさせてくる。人を笑顔にさせた春風はもっと偉大だ。万物を開花させる。人の心をも開花させる。開かれたこころには、春の日の風景が映る。次々と映る。そして、苦海に沈みがちの人間どもを、あっさり笑顔にさせて来る。

今日はいまいちお天気が優れない。曇っている。寒そうだ。いますぐにはそとに出て行く気になれない。ま、そのうちに快復するだろう。そうすれば、わたしも笑顔を探しにふらりと散歩に出てみようか。のこのこ登山用の両手の杖を借りながら。

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こんな母さんだから、こんなこどもに育ったのだろう。

2021年02月27日 08時52分46秒 | Weblog

美味しいと言へば必ず母さんは自分の皿を私にくれる    佐賀市 井上俊己さん

今朝の新聞の読者文芸の入選作品にこの句を見つけた。うるるんと来た。目頭が思わず熱くなった。松尾純人選。

こんな母さんだから、こんなふうに受け止めるこどもに育って、ずっとあたたまりにあたためられて、いついつまでも母さんの心遣いを大事にキープしておられるのだろう。母さんには母性がある。母性は我が子を前にすればそれを発揮しないではいられない。

人は母さんから生まれて来る。かあさんからいのちをもらって生まれる。この事実は何歳になろうと変わらない。こどもも、だから、いつまでも母さんを思っている。そうしているとあたたまるのだ。何があっても、此処へ帰ってくるとこころが熱くなるのだ。

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「ヘルプミー」を叫びましょうね。

2021年02月26日 18時11分25秒 | Weblog

仏典をまたまた取り上げます。みなさん、読みたくないで、無視されてしまわれるかもしれませんが、それでも取り上げてみます。

 

仏典は仏さまのお説きになられた教えです。これはこころの財宝になると思います。

若し、人あって、悪刀杖(あくとうじょう)、及び瓦石(がしゃく)を加えんとすれば、則(すなわ)ち、変化(へんげ)の人を遣(つか)わして、之(これ)が為に衛護(えご)と作(な)さしめん。

法華経より

もしも悪人が近付いてきて、悪意を持って刀や木切れや瓦や石ころなどをもって襲って来るようなことがあるなら、そのときには、すぐさま仏さまが、変化(へんげ)の人(=菩薩)を遣わして、この人の元に現れて、災難を受けようとするこの人を幾重にも衛って護り抜かせましょう。 

そこへすぐに「変化(へんげ)の人を遣わす」とお釈迦様が申されています。今で言うならスーパーマンですよね、この人は。観音菩薩さまや地蔵菩薩さま不動明王様、毘沙門天王様などが、人の姿になって現れて来られるのでしょうか。案外、それとはっきり見えない普通の人かもしれませんね。

ともかく苦難・災難が降りかかりそうなときには、仏陀が菩薩を遣わして、きっと「あなたを助けに来る」と約束をしてあります。

心強いではありませんか。

だったら遠慮なく堂々と「ヘルプミー」を叫びましょうね。道が此処から開けて来るかもしれません。

 

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壁画の観世音菩薩像を見ました。

2021年02月26日 18時00分07秒 | Weblog

先日、法隆寺釈迦三尊と回りの壁画を、福岡県大野城市のふるさと館に見に行きました。

 

 

これは観世音菩薩像でしょうか。模造した作品でしたが、感動を覚えました。

 

(写真が巧く撮れていないようですね。やや暈けています。)

 

こんな絵が描けるようになりたいなあ。下手でいいから。描いているだけで放心してしまいそう。

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仏典はよろこびのオアシスである。酌めども尽きない。

2021年02月26日 16時42分49秒 | Weblog

是人之功徳 無辺無有窮 如十方虚空 不可得辺際   

法華経如来神力品より

ぜにんしくどく むへんむうぐう にょじっぽうこくう ふかとくへんざい

この人の功徳は、無辺にして窮まり有ることなく、十方の虚空の、辺際を得るべからざるが如し。

「この人」とは? 此処では法華経を聞いている人たちのことである。信じて受持して実践する人たちのことである。

法華経を聞いて信じて受け入れてそれを実践に移す事ができる人たちには功徳が付与される。仏陀から無辺際の数限りない功徳を頂戴する。

ご利益を頂戴する。ご利益が何処までも何処までも続く大空のように窮まりがない。尽きない。エンドレスだ、というのである。

如来神力(=神通力)もこの功徳である。ご利益である。

利他の実践をするときにはこの如来神力が、法華経の行者に提供される。

(利己のためには、しかし、これは活用できないらしい。あくまでも利他の実践活動のときにしか行使できないらしい)

この後に経典はこう続いている。

能持是経者 則為已見我  (のうじぜきょうしゃ そくいいけんが)

能く是の経を持(たも)つ者は、則(すなわ)ち為に已に我を見るなり。

法華経を保持している人はなによりもまずわたし(仏陀=釈迦牟尼世尊)に遭うことができている。仏陀に遭って最大級の歓喜を覚えている。これがなによりの功徳である、と。

何度も書いていることだが、仏典はよろこびのオアシスである。だからここへ来る。ここへ来ると魂の渇きが癒される。いのちが歓喜でみずみずしくなって潤う。よろこべよろこべよろこべと書いてある。

よろこんだ者は他者をよろこばせねばならないのだが、さぶろうはそれをしないで、ひとりだけでにやにやにやしている。もらうだけで与えることをしていない。与えることでますますご利益は増大してパワーアップするはずだろうけど、それを怠っている。怠け癖を羞じる。

 

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午前中は泌尿器科クリニックへ。

2021年02月26日 13時05分35秒 | Weblog

雨が降り続いている。気温も低い。

 

泌尿器科医院に頻尿防止の薬をもらいに行って来た。いつもの薬を2ヶ月分もらって来た。

 

いつもの2倍の薬の量をもらえるのは、コロナ感染を防ぐという趣旨も潜んでいるらしい。

 

待合室には診察待ちの患者が溢れていた。空けるべき間隔などは考慮され得ないほどに。

 

午前中一杯待たされるかと思っていたけれど、案外早く診察室に呼ばれた。ほっとした。

 

ドクターは次から次に一日、患者を部屋に迎え入れて診察をしておられる。さぞさぞお疲れになるだろうなと思った。

 

忍耐力が強くなければこれだけたくさんの患者さんは見れまい。僕にはできないな、と思って帰って来た。

 

 

いま午後4時35分。雨は止んでいる。風が強く吹いている音がしている。お昼は食べたのに、お腹が減ってきた。

 

家の中には誰も居ない。窓の外の雀たちを眺めている。餌場の餌はもう食い尽くされているようだ。

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嵌まるのを嫌がる。束縛を嫌がる。

2021年02月26日 09時03分45秒 | Weblog

僕は何宗派の仏典でもお構いなしに読む。仏典は仏陀の説法。宗派にこだわるのはばかげている。そんなふうにも思う。

阿弥陀経も読む。法華経も読む。観世音菩薩普門品も読む。陀羅尼品も読む。地蔵菩薩本願経も読む。そこここで仏陀の声を聞く。

ま、それだけ曖昧だということになる。精通していない、ということにもなる。いい加減ということにもなる。

嵌まらない。嵌まるのを嫌がる。あれこれの主張主義に拘束されるのを嫌う。

ともかく宗派宗派にこだわりを持たない。そこに仏陀の声を聞いていればいい。嬉しくなれる。

だもんで、活動をしない。宗派宗派に汲みする活動をしない。無責任極まりない。一人嬉しくなるだけで、他者を嬉しくさせる行動にも出ない。

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やがてしだいに心の動揺・不安が収まって来て、静かになる。

2021年02月26日 08時54分34秒 | Weblog

で、不安を解消しに掛かる。

深呼吸をする。何度か深く息を吸い込む。それを長く小さく吐いて出す。

音楽を聴く。バイオリン協奏曲を聴く。

仏典を読む。ときには声にも出して。

仏典はお釈迦様の説法の声が満ちているところ。仏陀の声を聞く。

やがてしだいに心の動揺が収まって来て、静けさが来る。静かになる。

まどろむ。とろりとろりする。

仏陀に守られている己がいて、それがとろりとりして船を漕いでいる。

この2極点を行き来する。地獄界に堕ちる。天上界に浮上する。ときには仏界にも来てしばし遊ぶことになる。揺れる。揺れ揺れる。

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空は灰色。薄暗い。雨垂れの音が遠く近くなる。

2021年02月26日 08時41分20秒 | Weblog

にんげんには不安がつきまとう。あれこれあれこれの不安が頭をもたげて来る。

こころが虚になる。部分部分が欠落して来る。いびつになる。不安定になる。軽くなって吹き飛ばされそうになる。

飛び去って行かないように必死で押さえ込んでいる。それがまた不安になっている。

あんなことをしてしまった。こんなこともしてしまった。しなきゃよかった。次はああなるんじゃないか、こうなるんじゃないか。そうなったらどうしよう。

何かがいつも不足している。一見、充実しているように見えていても、いつのまにか袋に空気穴が空いて空気がすういすういと減って行く。

元通りにしなきゃと慌てる。空気入れを持ち出して急いで充填する。復活を図る。慌てる。うまくいくかどうか。うまくいかなかったらどうしようか。それがまた不安になる。

心穏やかではない。いつも、ふうらふうら浮き上がって軽々と流されている。雨垂れの音の間隔がずいぶん遠くなった。でも、空は相変わらず灰色だ。薄暗い。

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