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<小京都> 北海道 松前 2.

2022-07-04 08:35:05 | 小京都

「北の小京都 北海道 松前」

 室町時代から続いたアイヌとの長い攻防の末に支配者となった武田氏は、豊臣時代になると「松前」の姓を名乗る。それが松前藩の始まり。

 江戸時代には厳しい風土のため稲作が困難なため、石高を持たない唯一の藩だったが、やがて北前船による本州と蝦夷地との交易で益を得るようになり、その繁栄は、後に「松前の五月は江戸にもない」と記録されるまでになる。

 松前は日本最北の城下町だが、松前城は北方警備のために江戸末期に築城された比較的に新しいお城であり、城下町は明治維新に際しての函館戦争により、五稜郭から進行して来た旧幕府軍との戦闘で大半を消失し、今は偶然に戦災を免れたわずかの寺院が寺町で当時の面影を残している。

 後年、公園となった城跡には、日本一の桜の里を目指して桜の植林が始まり、今は八千本もの八重桜が、5月のゴールデンウィークの後に、北海道に春の訪れを知らせてくれる。

 これらは先人による品種の収集と保存による努力の賜物だ。

 最近では城下町が再現された松前藩屋敷が造られ、観光面においても脚光を浴びつつある。

 =北海道の小京都・松前町の観光ポイント=
 「桜の名所」がある

  松前の桜
  松前の桜は、江戸時代に本州から渡ってきた人が、ふるさとを懐かしんで植えたのがきっかけと言われています。松前の桜は種類の多いことで知られ、現在は、松前生まれの約100種を含む250種1万本の桜を見ることができます。その約8割は八重咲で、春には、色・形とりどりの桜がリレー咲を繰り広げ、約1カ月間に渡ってお花見を楽しむことができます。
  松前公園は「日本さくら名所100選」に選ばれ、日本さくらの会から「さくらの里」の称号が与えられています。

  三大名木(松前公園内)
  【光善寺の血脈桜(けちみゃくざくら)】
  光善寺の境内にある推定樹齢300年以上の古木で、松前を代表する桜の品種「南殿」の親木。この木にまつわる伝説もあります。

  【龍雲院の蝦夷霞桜(えぞかすみざくら)】
  霞桜は日本各地に自生していますが、植物分類学者で元北海道大学教授の館脇操博士が、歴史的背景から龍雲院の境内にある霞桜を、「えぞかすみざくら」と命名。

  【天神坂の夫婦桜(めおとざくら)】
  1本の幹から染井吉野と南殿が寄り添うように生えていることから、中睦まじい夫婦に例えて「夫婦桜」と命名。

*https://www.town.matsumae.hokkaido.jp/hotnews/detail/00001353.html より


 江戸時代からの「城下町」

  「松前町」道内唯一の城下町を歴史観光
    北海道の南端に位置する松前町は、北海道で唯一、また、最後に造られた日本式城郭である福山城(松前城)をはじめ、古い寺社が立ち並ぶ寺町など、かつての城下町の雰囲気が感じられるスポットがたくさんある。長年ガイドとして松前の魅力を伝えてきた達人による松前歴史散歩のススメ。

    渡島半島の南西部に位置する松前町。函館から国道228号線を南西に進むこと約2時間。北海道最南端の白神岬を過ぎ、町内に入ると、丘の木々の上に福山城の屋根と白い城壁が目に入ってくる。一般的に「歴史が浅い」といわれることも多い北海道において随一の歴史をもつ唯一の城下町であり、今でも江戸の風情が感じられる町並みが広がっている。

  幕末につくられた福山城とその北側に広がる寺町は、明治以前の北海道の歴史を理解するうえで重要な遺産として、2004年に「福山城(松前城)と寺町」として北海道遺産にも選定されている。松前城のある松前公園とその周辺は、江戸の風情を感じながら歴史散歩を楽しめるエリアだ。


 名刹の「お寺」がある

  法幢寺,龍雲院,法源寺,光善寺,阿吽寺,専念寺,正行寺,法華寺

 京都の影響を受けた伝統の「お祭り」が今も続く

  【松前城下時代まつり】 8月13日~15日(3日間)
  城下町ならではの奇抜なイベント。バイクを馬にみたてた「バイク武者軍団パレード」は必見!甲冑を身にまとったライダーが町内の国道を疾走。また、大縁日、盆踊り、花火大会が催される。

*https://www.little-kyoto.com/hokkaido/matsumae.html より

 

 【知られざる北海道】vol.7 「北の小京都」松前で知られざる寺町を歩く(前編)

 「北の小京都」といわれるのが、最北の城下町・松前ですが、実は松前の城下町は、往事の町並みがほとんど残っていません。幕末の戊辰戦争(箱館戦争)で新政府側に寝返った松前藩は城下に火を放って逃走。これで、寺町も焼けてしまうのです。ところが、実際は火を放つのを自重した賢い住職が・・・。その結果、素敵な寺町が一部に残されたのです。

 幕末に松前藩は奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい=陸奥国・出羽国・越後国の東北諸藩が輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主として新政府軍に対抗した同盟)に属していましたが、東北諸藩が新政府(薩長連合)に対して降伏すると、いち早く新政府側につき、北上する旧幕府軍を迎え撃つことになります。

 慶応4年(1868年)、土方歳三を総督とする旧幕府軍の攻撃を受けた福山城(松前城=以下は松前城と記します)は、軍備も旧式で、蟠竜丸(木造スクーナー型蒸気船)・回天丸(木造外輪式の蒸気船)などからの砲撃などであっけなく落城となります。
このときに松前藩側は城下に火を放って逃走。寺町の各寺にも火を放つことを強要しますが、一部の住職はこれを受け流し、火を放つのを自重します。こうして今もこの一角だけが実は往事と同じようなたたずまいをみせています。

 実は寺町はアイヌと対峙していた中世松前の防御線
 「実は寺町は松前城(福山館=ふくやまだて)を築くときに、山側の防備を固めるために天守閣の山側に寺を配したものです。これは中世には対峙する敵がアイヌだったことを物語っているそうです」と解説するのは、寺町を案内してくれた松前の「温泉旅館矢野」の若女将、杉本夏子さん。

 松前という地名はアイヌ語の「マツ・オマ・イ」(婦人・居る・ところ=永田地名解)に由来。つまり、先住民であるアイヌが住む地に、和人の女性が共存したという珍しい状況を表している地名です。
 松前から上ノ国にかけては、北海道では最初に和人が定住した場所です。1606(慶長11)年に福山館(城)を築城する前にはアイヌと和睦しているので、近世では対アイヌの防御というより、城の鬼門守護という色彩が強かったのかもしれません。

 ちなみに松前城のできる前の、中世的な山城の大館は、松前城のほぼ北700~800mほどのところにありましたから、こちらはアイヌから守るという意味合いも強かったと思われます。

 光善寺にまずは参詣したい
 さてさて肝心の寺町です。その中心的な存在は、国指定史跡の松前藩主松前家墓所ですが、歴代の藩主の墓が並んでいるだけで、面白みには欠けます(キリシタン信仰と関係があるとされる織部灯籠などもありますが)。

 注目の寺は、光善寺(高徳山千嶋教院光善寺)。
 寺伝によれば光善寺は、天文2年(1533年)に建立された浄土宗の寺です(創建時は高山寺で元和7年光善寺と改称)。松前城の前身、福山館が築かれるのが1600年(慶長5年)。蠣崎姓をアイヌ語のアイヌ語の「マツ・オマ・イ」を漢字に直して松前にして、松前慶広(まつまえよしひろ)を名乗ったのも家康に所領を安堵されてからですが、光善寺はそれ以前の室町時代の開山。家康が生まれたのが天文11年(1542年)ですから、家康が生まれる9年も前に開山したことになります。

 光善寺境内に「義経山の石碑」という不思議な石碑があり、「無事に蝦夷地に上陸した義経は、神仏に深く感謝、 阿弥陀千体仏を刻んで安置」との伝承から「義経北行伝説」の一部にもなっています。つまり義経ゆかりの寺が義経山欣求院で、明治の神仏分離・廃仏毀釈と戊辰戦争の戦火という荒波のなかで義経山欣求院は焼けてしまい光善寺に合祀されたと伝えられています。

 その光善寺、実は松前を代表する桜の品種「南殿(なでん)」の親木となる血脈桜(けちみゃくさくら)の寺として有名で、桜シーズンには多くの観光客がやってきますが、それ以外はほとんど訪れる観光客がありません。逆にいえば、「桜の寺」としてのみ注目されているにすぎないのです。

 本堂などは近年の再建ですが仁王門と山門は箱館戦争の戦禍を免れて現存しています。現存する朱色の山門・仁王門は宝暦2年(1752年)の建立で、その先にある中国風の鐘楼門(弘化4年築)とともに、ここが北海道であることが信じられないくらいに京都的です。

 光善寺一帯は道内唯一の近世的な寺町として「福山(松前)城と寺町」として北海道遺産にも認定されているのですが、あまり注目されていないまだまだ穴場的な存在になっています。

*https://hokkaido-travel.com/hokkaido-heritage/matsumae-kyoto/ より

 【知られざる北海道】vol.7 「北の小京都」松前で知られざる寺町を歩く(後編)

 龍雲院、法源寺、法幢寺など5つの寺や松前藩主松前家墓所が現存し、道内唯一の近世的な寺町として北海道遺産「福山(松前)城と寺町」にも認定の松前の寺町。前編ではその由来の秘密と光善寺を紹介しました。後編では龍雲院、法幢寺、阿吽寺に参詣しますが、そこには北海道に渡った安東氏の歴史や、北前船で運ばれた京の文化など、知られざる北海道が満載!

 龍雲院は曹洞宗の寺で、寛永2年(1625年)の創建。箱館戦争の戦禍をまぬがれ、江戸時代のままの伽藍(がらん)を残す貴重な寺院です。本堂・庫裏は天保13年(1842年)の建築で、松前にある現存する本堂建築では最古のもの。しかも新潟県柏崎の大工によって建築された、各部に優れた彫刻を用いた建物ということで国の重要文化財に指定されています。素敵な鐘楼は弘化3年(1846年)築のもの。
龍雲院という名は、松前藩2代藩主・松前公広(まつまえきんひろ)の正室として京から腰入れした奥方(大炊御門資賢の娘)が亡くなった長男の冥福を祈って、松前家菩提寺・法幢寺の三世良天和尚が開山。寺名も早逝した長男・松平兼広の戒名からとったものと伝わっています。ちなみに夫の松前公広は、元和6年(1620年)、福山城の城下町を整備しているので、城下町整備直後に創建ということになります。

 阿吽寺は北海道最古の寺!?
 松前家の菩提寺で、山門は天保5年(1834年)築の法幢寺(ほうどうじ)、松前家の祈願所の阿吽寺(あうんじ)など地図を見ていただけばよくわかるのですが、小さなエリアに密集するように寺が固まっています。
 阿吽寺に関しては、実は「北海道最古の寺」という説も。
 十三湊・福島城の城主・安東氏の菩提寺で山王大明神を祀った阿吽寺(現在の五所川原市の山王坊日吉神社境内にある山王坊遺跡が跡地と伝えられます)の主僧・永善坊道明と真言修験者・山王坊らが、南部氏に敗れた安東一族に随従して蝦夷地に渡海。蝦夷地に渡った安東氏は茂別館(もべつたて/現在の北斗市矢不来)に舘を築きますが、この居館近くに建てられた阿吽寺が北海道における最初の寺院建立といわれています。
 十三湊は、中世、日本海北部最大の国際交易港。
 それを拠点に活躍した安藤盛季(あんどうもりすえ)は、嘉吉3年(1443年)頃(松前藩史『新羅之記録』による)、南部義政に攻撃され、蝦夷地へ退転。茂別館を築いていますが、永正9年(1512年)以降に安東氏が築いた大館(現在の松前にあった居館=松前町神明の徳山大神宮が跡地)に移転し、大永7年(1527年)、蠣崎義広(かきざきよしひろ=松前氏の祖)が再興し、正式に蠣崎氏(後の松前氏)の祈願所となりました。

 「海渡山阿吽寺」と称しているのは、その歴史的な由来からです。
 寺の場所は、元和3年(1617年)頃、松前城の鬼門(北東)鎮護のため、現在の場所に移っています。寺の山門は松前城の北東側にあった堀上門を移築したもの。戊辰戦争の戦火で消失した山門の代わりに松前城の城門が転用されたもの。
 明治6年、北海道開拓使は新政府の方針として、松前城の破却と残存する建物を役所や官庁へ転用することを命じたのです。その結果、寺の山門として堀上門が奇跡的に残されたという話。

 余談ですが、安藤盛季の蝦夷地渡海に従った武将に武田信弘、河野政通、相原政胤らがいますが、そのうちの河野政通は、宇須岸に館(だて)を築きます。「その形が、箱に似ているところから、土地の人は『箱館』と呼び習わすようになり、それが函館という地名の由来になったのだとか。

 松前の寺には数々のドラマが隠されています。

 北前船で運ばれた京風の文化
 しかも地元の人はその魅力にまったくといっていいほど、気づいていないのですが、素敵な石仏が随所にあります。
北前船で運ばれた京風の文化が背景にあり、石材も越前国・足羽山(現在の福井市)から九頭竜川を三国湊まで下り、三国湊から北国船で運ばれた笏谷石(しゃくだにいし)を使った場所がかなり多くあります。これは北前船の船倉に、船の安定を図ることも兼ねて笏谷石を置いたからとか。

 歴史好きにはたまらない魅力も随所に隠されているのが、「北の小京都」の魅力です。
 松前は桜の季節が有名ですが、実は有名な松前屏風(小玉貞良作)に描かれた松前は、宝暦年間の秋の松前。江差屏風の春と対になっているといわれますが、松前出身で松前を知り尽くした画家、小玉貞良があえて秋を描いたのにはそれなりの理由があったことでしょう(もちろん桜などは当時は植栽されていませんが)。

 俳句の歳時記には「松前渡る」と「松前帰る」という季語があります。文字通り、春に渡り、秋に帰るという出稼ぎ労働を意味する季語ですが、冬支度をしながら北前船に北の海の幸を満載する秋は、さぞかし賑やかだったことでしょう。もちろん、当時、アイヌとの交易は松前藩が独占していましたから、城下町の活気はまさに屏風絵を見れば一目瞭然です。

 さてさて、松前の旅の拠点となる宿ですが、今回寺町をガイドしてくれた若女将の杉本夏子さんが頑張る、温泉旅館矢野は、松前随一の老舗。フロント前には甲冑など数々の歴史資料も展示されていますし、フロント背後には巨大な松前屏風(レプリカ)が掛けられています。
事前に予約すれば、松前藩主の味わった「藩主料理」を堪能することも可能です。
 「松前藩主第14代徳広候の婚礼の祝膳を参考にして、現代の人の口に合う様にアレンジしています」(杉本さん)とのこと。

*https://hokkaido-travel.com/hokkaido-heritage/matsumae-kyoto2/ より

https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=a90cf718b32e11cf6665a09dd60b40e7&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MCZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2MmY2F0ZWdvcnlfaWQ9OTkzNDdmMWFhOWE5YWM2N2RkOTM3MDYzNDViYzM5YzgmeW1kPSZwPTY=

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日経MJ 2022年ヒット商品番付 西 前頭3枚目

2022-07-04 08:19:52 | ヒット商品

 日経MJ 2022年ヒット商品番付 西 前頭3枚目

 「タイガー魔法瓶 真空断熱炭酸ボトル」

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②安全弁機構
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 ほんと画期的商品!

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<和製英語> テレビゲーム

2022-07-04 08:14:42 | 言葉

 「テレビゲーム」

 主に一般消費者向けの「テレビゲーム機」によるコンピュータゲームを指す用語。テレビ受像機をディスプレイとして使うことからできた和製英語で、英語では一般的にビデオゲーム(video game)と言われる。

*Wikipedia より

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<メロン> アスコット

2022-07-04 08:11:47 | 果物

 「アスコット」

 ●アスコットメロンとは
◆アスコットの来歴
 「アスコット」は株式会社大和農園が開発したノーネット系の黄皮種、白肉のメロンでF1品種となっています。

◆アスコットの特徴
 「アスコット」は果重 0.8〜1.1kg(撮影したものは710gほど)の長楕円形で、果皮色は全体に明るい黄色で、黄金マクワに似ていますが、マクワウリとは違い果梗付け根が窪まず、果皮表面はすべすべしており艶もあります。

 中の果肉は薄い黄緑が残ったような白で果汁も多く、環境が揃えば糖度が 16〜18度になるとされています。

●アスコットの主な産地と旬
◆主な産地と生産量
 アスコットだけの収穫量統計は見当たらず、正確な数値は不明ですが、大きな市場に出荷されているものは青森県産物が多いようです。

 種自体はどこの産地でも購入することができるので、個々の農園では各地で栽培されていると思います。

 大和農園のホームページには、『ハウス~トンネル地這栽培までの作型に適応。 ○草勢は旺盛で、着果が良く多収性。多ヅル栽培に適する。』と紹介されており、栽培自体は全国どこでも可能なようです。

◆アスコットの収穫時期と旬
 アスコットの収穫時期は近畿圏の場合、ハウスの促成栽培ものだと4月中旬ごろ殻となっており、一般的なトンネル栽培では6月から8月中旬頃となっています。

 主な産地と思われる青森県で見ると、「つがるメロン協議会」での出荷時期は7月下旬~8月初めとなっています。

*https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/melon-Ascot.htm より

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<慣用句・諺> 片時去らず など

2022-07-04 08:08:46 | 慣用句・諺

 「片時去らず」

 少しの間もやむことなく。始終。

 

 「刀折れ矢尽きる」

 《「後漢書」段熲伝から》戦う手段をすっかり使い果たす。また、物事に立ち向かう手段がなくなる。弓折れ矢尽きる。

 

 「刀に懸けても」

 1 刀を抜いての勝負となっても。腕ずくでも。

 2 武士の名誉に懸けても。誓って。

 

 「刀の錆」

 1 刀に生じる錆。また、血が錆の原因になるところから、刀で切り殺すことや切り殺されることにいう。

 2 「刀汚 (かたなよご) し2」に同じ。

  2 切る価値のないものを切ること。刀のさび。

 

 「刀の手前」

 刀を差している武士の面目上。

 

*goo辞書 より

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< 焼 酎 > 鹿児島 伊佐美/甲斐商店

2022-07-04 07:50:18 | 焼酎

 【令和3年酒類鑑評会(本格焼酎部門)優等賞 甘藷部門 44/50

 (鹿児島) 「伊佐美/甲斐商店」

*https://www.honkakushochu.or.jp/product/1922/ より

伊佐美は「元祖プレミアム焼酎」と言われおります。
創業時から一貫して黒麹を使い、黒麹の持つ濃厚な味わいが特徴的な伊佐美は、クセもなく、キレのいい飲み口です。
ロックでも美味しく頂けますが、芋の香りを楽しみたい方はぜひお湯割りでご賞味ください。

*https://shochu-tairiku.com/products/156450797.html より

 

 株式会社甲斐商店 鹿児島県伊佐市大口上町7番地1

 甲斐商店のラインナップ

 「伊佐美」←これのみ

 

 創業明治37年です。今現在四代目です。伊佐の盆地で寒暖の差がはげしく、夏は蒸し暑く冬は1、2月は朝は氷点下の日が多いです。米もおいしいです。 平成8年、区画整理により街中から現在の地に移転してきました。

 銘柄は伊佐美だけでオンリーです。最初から黒麹で今日まで続けております。 現在は黒麹が主流になっていますが、以前は白麹で造っているメーカーがほとんどでした。 まろやかで、コクがあり、お湯割をお勧めします。

*http://zizake-net.o.oo7.jp/kai.html より

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<伝統野菜> 福井 勝山水菜

2022-07-04 07:39:13 | 伝統野菜

 「勝山水菜」

【生産地】勝山市高島地区

【特徴】菜種に近い品種であり、その太い茎(とう)が特徴的。

【食味】独特の甘み、そしてほろ苦さがある。

【料理】おひたし、磯部巻き、お茶漬け、味噌汁、鍋物

【来歴】地域名と他の菜類に比べてアクがなく、みずみずしいことから、明治以前から受け継がれています。

【時期】2月~3月

*https://tradveggie.or.jp/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e4%bc%9d%e7%b5%b1%e9%87%8e%e8%8f%9c%ef%bc%8d18-%e7%a6%8f%e4%ba%95%e7%9c%8c/#i-13 より

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<The Wonder 500> ものづくり 293 杢絞り WAスカーフ

2022-07-04 07:32:12 | The Wonder 500

 「293 杢絞り WAスカーフ」

商品について
杢絞りの技法により、スカーフ全体が波のような、ストライプのようなエレガントな柄の仕上がりとなっています。
スヌード状に縫製しておりますので、1重、2重、アシンメトリーに、また輪ゴムを使用してさまざまな形を楽しんで頂けます。
(画面上の色と実際の製品の色は多少異なる場合がございます)

商品の仕様
素材: Silk100%
サイズ(縮んだ状態で): 10cm×50cm
※素材、絞り方により多少の誤差が生じる場合がございます。 予めご了承ください。
デザイン・染色: 日本、 絞り加工: 中国

 株式会社 片山文三郎商店 京都府京都市中京区蛸薬師通り烏丸西入ル橋弁慶町221

 100年の伝統は、常に革新とともに

 日本古来の伝統技術である絞りを現代の暮らしの中に提案する。 次の世代へ、またグローバルに良き物を発信し、繋げていきます。

 Discovery:伝統技術との出会い

 糸偏に交わると書いて「絞り」。交えた糸の下は「染まらない」。 絞り染めは、生地にきつく糸を巻きつけて防染する、極めて単純な古来より営まれてきた染色技法です。 その絞り染めを生業とした片山文三郎商店は、1915年(大正4年)、京都烏丸で「京鹿の子絞り」専門の呉服製造業として創業しました。 以来、百年を過ごす片山文三郎商店の歴史は、常に革新とともにあります。初代・文三郎が得意としたシンプルシックなスタイルは、当時からすれば時代を先取りした美的感覚が貫かれていました。 やがて二代目・片山文雄の時代になると、ライフスタイルの変化に合わせて、伝統と新しさの融合をめざし、インテリアやファッションなど呉服以外の分野でも絞り染めの魅力を発信しはじめます。

 Wearable Art:ファッションに取り入れ、着られるアートに

 そして1992年、三代目・片山一雄が継承してからは、江戸時代以来途絶えていた「本座鹿の子絞り」の技法を復刻するなど、伝統の担い手としての使命も守りつつ、現代ファッションとアートが融合したものづくりをさらに加速させています。 元来は伸ばして柄を楽しむものであった絞り染めを伸ばさないでユニークなフォルムとして見せる、生地の裏面をあえて表に用いた洋服など、捉われない彼の感性が見据えるものも、今よりほんの少しだけ先にある美しさです。 糸をほどいた瞬間の大きく突き出した絞りのフォルムを生かし、スカーフやファッションを製作。 身に纏えばその人自体がアートな存在になれる「Wearable Art」として提案しています。 そこには、驚きと喜びが共存します。

 Connection:絞り=着物を超えて、未だ絞りを知らない世代、海外への架け橋

 日本古来の伝統技術である絞りを現代の暮らしの中に提案する。次の世代へ、またグローバルに良き物を発信しながら、繋げていくこともまた大切な仕事であると考え、海外展開にも積極的に取り組んでいます。

 

 片山文三郎商店は、京都の地で大正時代から続く絞り屋で1915年(大正4年)、片山文三郎が京都独自の「京鹿の子絞り」を専門に、高級絞り呉服製造業を創業しました。
 明治生まれの職人気質で絞呉服の製作、技術開発の向上に努めたことがはじまりです。

 

 着物は、華美でなく抑えた美しさこそが着る人を引き立てることを知っていた文三郎の生み出す絞り呉服は、柄が少なく、当時としては極めてシンプルでシック、時代を少しだけ先取りしていたのでしょう「絞りの片山文三郎商店」として、次第に発展しました。

 「勝って兜の緒を締めよ」とは、片山文三郎がよく口にした言葉でした。
 従業員端々に至るまで、誠実で、決して奢ることのない日々の精進と努力が片山文三郎商店の理念として現在まで脈々と受け継がれています。

 

 日本において古くから伝わり、そして京都の地に守られ、決して衰えることなく後世に伝承される職人の手わざを用い、千余年の歴史に培われた京鹿の子絞り。

 

 21世紀の今、「着物」や「手作業の絞り染」など、過去の民族文化として忘れ去られていきそうになる中で、いよいよ「絞り屋 片山文三郎商店」にしかできないものを創造して行かなくてはなりません。

 片山一雄 現社長の座右の銘は「伝統は革新の中にあり」です。
 伝統を絞り呉服という形で守り続ける一方で、絞り染めが持つ無限の可能性を現代に伝えたいという強い思いから現代生活に沿う製品を生み出してまいりました。
絞りの凹凸をそのまま生かしたユニークで大胆なフォルムの絞り染め製品は、まさに「ファッションとアートの融合」、「纏う芸術」=Wearable Artです。
 整然と続く絞りの凹凸の配列。永遠のような繰り返しが生み出す日本的な様式美は多くの共感を頂いています。

 

 お客様に絞り染めの美しさをより身近に感じて頂きたいという想いは強く、着ることの出来るアート、また身に着けた人がアートとなるような Wearable Art(ウェアラブルアート)をテーマに製品開発をすすめています。

 片山文三郎が意匠を創意した京都の地で、絞り染めを活かして、皆様の明日を提案し続けて参ります。

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