「静岡 磐田」
東海道の沿道の町のひとつ(ただし、東海道五十三次には含まれていない)。天竜川の河口に位置しており、東西水運の中継地としても栄え、大都市の文化が持ち込まれた。*Wikipedia より
【ぷらっと遠州さんぽ】「遠州の小江戸」と呼ばれた湊町、磐田市<掛塚>を歩く。
遠州の小江戸と呼ばれる「静岡県磐田市掛塚」。小江戸(こえど)とは、「江戸のように栄えた町」の事を言います。
遠州灘と合流する天竜川河口にほど近い掛塚は、天竜杉など北遠の木材を江戸や大阪へ運ぶ為の拠点「掛塚湊(かけつかみなと)」として栄えた町です。
今回は、廻船問屋跡や伊豆石の蔵など多くの史跡が残る町「掛塚」を、てんぐちゃんと一緒にお散歩してきました!
上の地図は、歩いている途中で「お、なんだあれは!」と目に入ったものをまとめたものです。ちょっと歩くだけでも多くの発見がありました ^^
それでは遠州の小江戸「掛塚」を一緒に覗いてみましょう!
天竜川と共に生きた掛塚
こんにちは。遠州(静岡県西部地方)の郷土史をテーマに張り子作家をしている坂田吉章と申します。
いつもは相棒のてんぐちゃんの後ろに隠れ、張り子を作りながらのんきに暮らしているのですが、珍しく表にでるお仕事なので緊張しておりますがどうぞよしなにです。
今回のお散歩は、磐田市と浜松市を繋ぐ掛塚橋のちょっと北にある「掛塚橋木橋跡」からスタート!
現在はもうない橋ですが、当時日本一長いと言われた876mある木橋が掛塚にありました。昭和30年(1950)頃は、現掛塚橋と旧掛塚橋が並んでいた時期もあったそうです。
川沿いを少し歩くと小さな祠を発見。
掛塚の名前の由来の1つに、度重なる天竜川の氾濫で町が欠けた「欠け須賀」からきているという話もあります。横須賀などがあるように、須賀は海辺の土地を表すそうです。今でこそ大きな被害を出していない天竜川ですが、かつては「暴れ天竜」と恐れられ多くの町や命をけずってきたと聞きます。このお地蔵様は、亡くなった方を供養すると共に現在の町の人達を見守ってくれているのかもしれませんね。感謝!
湊町らしい槙囲い
天竜川の向こうは浜松市。右奥に浜松市のランドマーク「アクトタワー」も見えます。
天竜川沿いには町へと繋がる小道がたくさんあり、町中へと歩みを進めます。町を歩くと湊町でよく見る「槙囲いの生垣」からなる道がたくさんある事に気がつきます。
槙囲いの道は表情いろいろで面白い。
これらはイヌマキと呼ばれる植物で、「遠州のからっ風」と呼ばれる強い風から守ってくれたり、堤防としての役割も持ちます。また掛塚は湊町の繁栄と比例し火災が多かったそうですが、イヌマキは燃えにくい木として防火林の役割も担う頼もしい存在だったようです。
小さい頃、イヌマキの実をよく食べてたなあ。
天竜川から町へ抜ける途中にあったお稲荷様の跡地。
掛塚湊を守る「貴船神社」
室町時代以前の創立と歴史あり
地図の北側を散歩し南側へ向かう途中「貴船神社」へも立ち寄りました。
水を司る神様「たかおかみのかみ」が御祭神で、町の船乗りや廻船問屋を中心に愛され掛塚湊を守ってきた神社です。
構え獅子の狛犬が迎えてくれました。珍しい〜
1枚目が「阿」、こちらが「吽」ですね。
拝殿を覗くと、航海の無事を祈る為であろう海を連想する多く奉納品が目に入ります。中でも目を引いたのがこちらの船の模型。
明治30年(1897)9月の大祭の折の奉納。
「ブリガンチン型」と呼ばれる西洋式帆船の模型で、磐田市の有形民俗文化財に指定されています。高さ2mくらいあり迫力がありました。
拝殿の中にはあきらかに歴史のありそうな古いお面もあり、上段には天狗も!
掛塚と天狗は何か関係有るのかな?と調べてみた所、貴船神社が拠点となる「掛塚まつり」では竹馬(たけうま)と呼ばれる天狗が現れるそうです。竹馬は先端が裂かれた太い竹「バレン」を使い、祭り行列の道中を祓い浄めてくれる天狗なんだとか。とはいえこの天狗面と竹馬が関係あるかは定かではないので、神主さんとお会いできれば聞いてみたいと思います。
、、、天狗から話が脱線した気がするので、戻ります。笑
本殿の裏には「掛塚港廻船之碑」と書かれた大きな石牌が!
こちらの石牌は、掛塚が湊町だった事の証に建てられたそうです。湊町ならではの史跡の多く残る神社でした。
お昼のごはん処
ちょうどお昼時だったので貴船神社から少し東に歩いた場所にある鰻屋「うなぎのたなか」さんにお邪魔しました。うなぎ一筋40年。関東風ならではのふっくらやわらかい鰻を堪能させて頂きました◎
うな丼(2,200円)。嬉しいデザート付☆
レトロな昭和建築「旧掛塚郵便局」
お昼はちょっと贅沢してしまいましたね。貴船神社方面へ戻り、そこから少し南下すると国の文化財「旧掛塚郵便局」があります。石積み風?昭和建築っぽくてかわいいです。
日本らしい漆喰を使った郵便マーク。
掛塚郵便局は「長谷川家住宅」とも呼ばれます。当時 廻船問屋を営んでいた長谷川家が郵便業務を請け負っていたからです。実はこの建物はなかなかの奥行きがあり、住宅として使われていた面影も残ります。
鬼瓦に郵便マーク!ピントが外れてて恥ずかしい。笑
ちなみにこちらの郵便局、賃貸として借りることもできるみたいです。史跡を使ったカフェなどにしても面白そうですね。
郵便局の奥には伊豆石の蔵もありました。
伊豆石は富の象徴であり、江戸城や皇居にも使われています。掛塚は、北遠の木材を掛塚湊から江戸や大阪へ運ぶ事業もあり栄えた町なのですが、木材を江戸へ降ろしたのち船のバランスをとるため伊豆石を持ち帰ってきていたそうです。ちなみに窓廻にも家紋や唐草を彫刻するなどの技が光っていてかっこいいのでぜひ目を凝らしてみてください。
町の色をつくる廻船問屋
市の文化財「津倉家住宅」
郵便局から少し西へ歩くと、江戸時代から明治時代にかけて栄えた廻船問屋「津倉家住宅」も。現在の建物は明治に建てられた掛塚のシンボルでもあります。津倉家住宅の中は一般公開する時もあるとの事。噂に聞く大黒天の祀られた欅(けやき)の大黒柱を拝んでみたいです。
ふと玄関の上のマークが気になり写真をパシャリ。
火消しが使う鳶口がモチーフ
調べたところ、東京火災(今の損保ジャパン)のマークでした。
掛塚には伊豆石を使った史跡が多く残っていますが、津倉家を少し南下した所にも立派な伊豆石の石垣がありました。
縞柄がかっこいい!
こちらの石垣は、廻船問屋「山文」を営んでた林家のお屋敷。外からも立派な桜の木やなまこ壁の蔵も見えます。林家は、静岡銀行の基礎を作った「平野又十郎」の生家だそうです。
掛塚にある「十郎島」という地名は「平野又十郎」から来てるのかな?
掛塚まつりの中町の屋台はこのなまこ蔵の中で作られたそうです。
町の中を巡るたくさんの水路から、水の理を活かした暮らしを想像できます。それらの中心にあったのは廻船問屋で、掛塚郵便局の長谷川家もそうですが廻船問屋が町の色を作っていたんだなと感じます。
国の有形文化財「つるや酒店」
林家のお屋敷のを南下すると、国の登録有形文化財「つるや酒店(靏谷家住宅主屋)」がありました。
玄関上にはレトロなホーロー看板?も
店内に入るとお酒の木製看板が出迎えてくれます。クラシックでかっこよいです。
天與と世界長
看板左には店名の入った徳利も。
着物の女性が描かれた物もお酒の看板。お酒の名前は手元のノートに控えめに書かれているだけというクールなデザイン。
つるや酒店は当時お酒の販売もしていましたが蔵元でもあり、掛塚湊のお酒も県外へ届けられていたそうです。現在の建物は明治17年頃に建築され、場所でいうと上の写真右側に位置します。
店内では徳利と通帳をもったたぬきさんとも会えます。当時はたぬきさん同様、お客さんが徳利をもって店へ通い、お酒を注いでもらうスタイルだったんですって。
最後に
遠州の小江戸「掛塚」、湊町ならではの史跡が多く楽しくお散歩させて頂きました。屋台祭りとして有名な「掛塚祭」も湊町ならではのお祭りで、掛塚が天竜杉の集まる湊だったから文化財になるほどの屋台を作る事ができたと聞きます。コロナがなければ毎年10月に貴船神社で開催するのでまた足を運んでみたいと思います。
排水溝のタイルもお祭り。掛塚のお祭り愛が伝わります。
また 江戸から持ち帰った伊豆石や天竜川の青石を使った史跡、貴船神社に赤レンガの蔵があるなど、湊町であるとともに文化の交流地だったという事も強く感じる町でした。
地図の北側にあった謎の石垣(青石?)
貴船神社の赤レンガの蔵
余談ですが、「みなと」という漢字は「港」と「湊」の両方の字を見かけると思います。「港」は水路、「湊」は船が発着する場所という意味との事。右辺だけ見ると「巷」は「通路」、「奏」は「集まる」という意味を持ち、掛塚では「掛塚湊」という字を多く見た気がします。
最後まで読んで頂きありがとうございました。ぜひ、記事上部の地図を見て気になる場所があれば足を運んでみてください。
それでは!
*https://www.rinkaku-enshu.com/reading/serialization/?sid=239 より
掛塚湊の碑/「遠州の小江戸」と呼ばれた掛塚湊|磐田市
磐田市の掛塚(かけつか)地区はかつて大坂と江戸を結ぶ廻船の中継地、天竜川の舟運の荷降ろしの湊として繁栄しました。繁栄を今に伝える「掛塚湊の碑」が磐田市駒場の海洋公園に立てられています。また貴船神社境内に掛塚港廻船之碑(大正13年建立)があるほか、白羽神社に船絵馬が奉納されています。
繁栄を今に伝えるのが貴船神社の祭礼
掛塚湊の「回漕業及材木商 林文吉」(川口屋)
余り知られていませんが、江戸時代から明治にかけて掛塚湊(かけつかみなと)は商業港として栄えました。
掛塚湊は、天竜川の河口を利用した天然の良港で、天竜川流域はもちろん遠州一円の物資を集結し、船で江戸や大坂へと運びました。江戸時代には、天竜川上流域で産する木材の集積地にもなり、幕府の御用材・御用米の廻送する拠点にもなっていたのです。
徳川家康江戸入府後に、江戸の町づくりや江戸城の築城にも天竜川上流の木材が使われています。
江戸が大火にみまわられれば、木材の需要が急増し、その都度、掛塚の廻船問屋は繁栄するという仕組みになり、その意味でも「小江戸」としての繋がりと繁栄がありました。
天竜川の河口のため湊は浅くて船の出入が難しいということで、往路は木材を積んだ御用船ですが、帰り荷は伊豆石や塩、雑貨などがわずかにある程度だったそうです。
今も掛塚周辺に伊豆石が多く見受けられるのは、船を安定させるために積み込んだ伊豆石の名残。
江戸時代も中期になると、天竜川上流の木材は切り尽くしてしまい、掛塚の廻船問屋は、御用米の運搬に参入します。
伊勢国や美濃国の幕府の年貢米を江戸に運ぶことで掛塚の廻船問屋はさらに財を成します。こうして廻船問屋が建ち並んで、「遠州の小江戸」といわれたほどの賑わいをみせました。
明治18年には新港が誕生し、明治19年〜明治28年に繁栄のピークを迎えますが、明治22年に国府津駅〜浜松駅間に東海道線が開通し(現在の御殿場線回り)、天竜停車場(現天竜川駅)が営業を開始して、徐々に貿易拠点としての使命を終えました。
ちなみに最盛期の明治25年には36軒の廻船問屋が59隻の大型船を所有していましたが、明治40年代には掛塚港の輸送力は鉄道輸送に食われて大幅に減少しています。
明治30年に初点灯した掛塚灯台が現存(往時とは違う場所に移設されています)。
掛塚本町に鎮座する貴船神社は、掛塚湊の守護神で、廻船問屋などの崇敬を受けました。10月の例祭は『掛塚まつり』と呼ばれ、今も繁栄時代に造営された豪華絢爛な屋台が曳き回されます。
掛塚湊の廻船問屋である遠州屋、中屋、川口屋はその建物が現存しています。
*https://shizuoka-hamamatsu-izu.com/hamamatsu/iwata-city/kaketsukaminato/ より