「みちのくの小京都 岩手 盛岡」
宮沢賢治の作品の中で、イーハトーブ市又はモリーオ市として登場するのが北東北の中心に位置し、東北新幹線が八戸まで延伸する前は終着駅だった盛岡。
盆地のため、夏は暑く冬は寒い気候は京都に似る。
市内で中津川、雫石川、北上川の三川が合流して南へ向かう。
西に見えるのは賢治も登っている(何度も)岩手山。
江戸時代は南部藩二十万石の城下町として整備され、今でも市内の細い道の間に、当時の面影を感じることができる。お城のあった盛岡城跡は岩手公園となっているが天守閣はなし。ただ、岩手の花崗岩で造られた石垣が残っている。近代に入ってからは原敬などの偉人を輩出しており、先人の偉業を紹介している記念館もある。
市内を散策すると、江戸時代から明治時代にかけての歴史的建造物や、彫刻が歩道にあったりして楽しい。また、金田一京助、石川啄木、宮沢賢治など文化人との縁の地であるため、文学碑や歌碑、記念するブロンズ彫刻と出会うことになる。
歩くときは、テーマを持って散策するとより楽しいだろう。
美術館も多い街だ。
食の分野では、わんこそば(美味しいとは思わないが)や冷麺、南部せんべいが名物。
お祭りでは、夏の「盛岡さんさ踊り」が東北三大祭りに数えられている。
=岩手県の小京都・盛岡市の観光ポイント=
「桜の名所」がある
岩の割れ目に自生する、名物エドヒガンザクラ-石割桜
盛岡地方裁判所の前庭にある、樹齢約360年といわれるエドヒガンザクラの巨木。周囲21mの巨大な花崗岩の狭い割れ目から生育しており、1923(大正12)年に国の天然記念物に指定されている。
日本百名城の一つとして知られる桜の名所-盛岡城跡公園(岩手公園)
かつて不来方(こずかた)城とも呼ばれた盛岡城跡の公園。多くの文豪が、この城跡を愛し、数々の名作が文学碑で残る。現在は市民の憩いの場となる桜の名所であり、石垣と桜の調和が美しく、多くの観光客が訪れる。
残雪の岩手山を背景に、水面に映える桜並木を愛でよう-高松公園
治水用の人造湖だった高松の池を中心に整備された公園。桜は日露戦争の勝利を記念してソメイヨシノを植えたのが始まりだ。大正の終わりには県下一の桜の名所となり、1949(昭和24)年に市立高松公園として盛岡市立の公園に指定された。岩手山を背景とし、水面に映る桜が美しい。
*https://restaurant.ikyu.com/hanami/arealist8316/ より
江戸時代からの「城下町」
盛岡の城下町
今日の盛岡市の基礎となった城下町は、北上川・中津川・雫石川の合流点に営まれ、城を中心とする三重の堀で区画されていました。
城下町の北から東にかけては、北上山地の丘陵地帯をひかえ、西から南にかけては、豊かな穀倉地帯がひろがります。
陸路は、南北に通る奥州道中(おうしゅうどうちゅう)(街道)に、西からは秋田街道が、東からは野田街道・宮古街道・遠野街道が、盛岡で交わります。また、北上川の水運は、和賀の黒沢尻、仙台藩領石巻を経て江戸へとつながります。
盛岡はまさに、水陸交通の要衝に栄えた城下町といえます。
*https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/rekishi/1009470/1009475.html より
名刹の「お寺」がある
盛岡八幡宮
盛岡藩南部氏鎮守。八幡宮例大祭では山車の巡行や流鏑馬が有名、境内には米内光政像、田村了咲句碑などがあります。南部氏は、もともと八幡神を氏神と仰ぐ家柄でした。今から約800年ほど昔に南部の藩祖である南部光行公が、 居城を三戸から不来方に移す際に、不来方の豪族である日戸氏が代々信仰していた鳩森八幡宮を修復し、 この地方の守護神として城内におまつりし、氏神と仰ぎました。城内の八幡社を藩主が篤く信奉することから、城下の民衆も自然に八幡神を崇敬するようになりました。 そのため、新たに崇敬の中心となるべき八幡神社の造営が必要とされ、 寛文11年に南部29代重信公が、商業の流通を図るために、町の中心部を整え、 新八幡宮の造営に着手しました。約1万5千坪の広大な境内地を定めて寛文11年に着手された造営工事は約8ヵ年を要し、 延宝8年にご本殿を始め、流鏑馬(やぶさめ)馬場等の主な建物や施設が整いました。 新八幡宮造営にあわせて、門前の町づくりにも着手し、その竣工と同時に門前町である八幡町が完成しました。 八幡町は、盛岡八幡宮の歴史とともに発展し現在に至っています。
*https://www.jalan.net/kankou/spt_03201ag2130009026/?screenId=OUW1701&influxKbn=0 より
*https://www.little-kyoto.com/iwate/morioka.html より