「江戸押絵」
江戸押絵羽子板
羽子板は、古くは「胡鬼板(こぎいた)」や「羽子木板(はねこいた)」とも呼ばれ、羽子(羽根)は「胡鬼の子」「はごの子」「つくばね」とも呼ばれていました。室町時代の永享4(1432)年正月5日に、宮中で宮様や公卿・女官などが集まって男組と女組に分かれ、「こぎの子勝負」が行われたことが記録に残っています。
当時、板に直接絵を描いた「描絵羽子板(かきえはごいた)」や、紙や布を張った「貼絵羽子板(はりえはごいた)」とともに、胡粉(ごふん)で彩色し、金箔(きんぱく)、銀箔等を押したり蒔絵(まきえ)をほどこしたりした「左義長羽子板(さぎちょうはごいた)」といった、豪華で華美な羽子板もありました。
江戸時代(1603~1867年)には、厚紙等の台紙に布を貼ったり、あるいは布に綿をくるんだりして厚みを持たせた部品をつくり、それらを組み合わせて立体的な絵を作る「押絵」の技術が発達しました。それが江戸押絵羽子板です。
文化文政期(1804~29年)には歌舞伎が人気を博し、浮世絵師が数多く活躍し多くの出版物が出されるなど町人文化が発達しました。こうした背景のもと押絵の技術が進歩し、歌舞伎役者の似顔絵を付けた「役者羽子板」が作られるようになり、爆発的に売れるようになりました。年の瀬ともなると、その年の人気役者の当たり狂言や舞台姿を競って求めるようになり、羽子板の売れ行きで役者の人気が推し量れるほどでした。
江戸の伝統的な技法を受け継いだ押絵羽子板師たちは、今日も押絵羽子板を作り続けており、特に師走の17日から19日までの3日間には、台東区浅草寺の境内で江戸の昔そのままに羽子板市(歳の市)が開かれ、年の瀬の風物詩の一つとなっています。飾り立てられた羽子板、色とりどりの羽根が並び、景気のいい掛け声と手拍子のにぎやかさに往時がしのばれます。
*https://craft.city.taito.lg.jp/craft/889/ より
*https://kougeihin.jp/craft/13041/ より
Description / 特徴・産地
江戸押絵とは?
江戸押絵(えどおしえ)は江戸後期より、日本橋から浅草近辺で作られてきた工芸品です。現在では墨田区、江東区、葛飾区のほか、埼玉県や神奈川県の一部でも制作されています。
押絵とは、厚紙等の台紙に布を貼ったり、布に綿をくるんだりして厚みを持たせた部品を組み合わせ、立体的な絵に仕立てたもの。中でも江戸押絵は、絹織物や綿織物を使った部品に日本画の技法を用いて上絵や面相を描き、浮世絵の絵柄を表現しているのが特徴です。人物の似顔絵のみならず、風景や動植物などさまざまなものを題材として取り入れていますが、特に歌舞伎役者の押絵を作る際には、着物の作法や色合わせ、髪型等に関する深い知識が不可欠だと言われています。
現在の江戸押絵は羽子板、肖像画、額装のほか屏風や団扇の装飾などにも使われ、その美しさは広く楽しまれています。
History / 歴史
江戸押絵 - 歴史
江戸時代は町人文化が栄えた時代で、江戸押絵もそれを反映して発達しましたが、名を馳せたきっかけは、羽子板に押絵が取り入れられたことでした。
それまで、羽子板はおめでたいもの(七福神や松竹梅等)が主な図柄でした。しかし歌舞伎が発展を遂げた元禄時代(1688~1704年)になると役者絵が描かれるようになり、文化・文政時代(1804~30年)には歌舞伎役者の似顔絵を押絵で作った役者羽子板が登場。歌舞伎人気の高まりと押絵技術の進歩が合わさり、役者羽子板は爆発的な売れ行きを記録したのです。
年の瀬には、羽子板の売れ行きで役者の人気が推し量れるほどで、これにより、江戸押絵は広く知られることとなりました。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/edooshie/ より
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます