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<経産大臣指定伝統的工芸品> 茨城 笠間焼

2021-02-12 07:48:59 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「笠間焼」

 笠間焼とは
 多様な顔を持つ、関東で最も古い焼き物産地

 関東でもっとも歴史の古い焼き物産地、笠間。その作風は窯元ごとに多様です。

 今日はそんな笠間焼の歴史と特徴について見ていきましょう。

 笠間焼とは。関東で最古。益子焼とは兄弟産地
 笠間焼は茨城県笠間地域で採れた粘土を使って作られる、関東で最も古い歴史を持つ焼き物である。

 江戸時代中期、笠間藩・箱田村の名主であった久野半右衛門が、信楽焼の陶工 (長右衛門) から教えを受け開窯。

 江戸時代末期になると笠間焼の技術は他の地域にも広がりをみせ、焼き物産地の成立に一役買うこととなった。

 特に栃木県益子町の益子焼は笠間焼の製法を受け継いでおり、笠間焼とは兄弟産地の関係にある。このほか、山形県山形市の平清水焼、栃木県馬頭町の小砂子焼などが笠間焼と関わりを持つ産地として知られている。

 現在焼き物としては、主に生活雑器 (皿、カップ、鉢、湯呑、酒器等) 、その他人形やオブジェ、モニュメントなども製作されている。

 ここに注目。作り手の95%は作家?
 戦後の生活様式の変化とともに笠間焼は急速に衰退したものの、市が笠間焼に活気をもたらすための政策を打ち出し、「陶芸団地」や「窯業団地」を建設。

 1960年代時に巻き起こった民藝ブームの際に、多くの作家志望者や若手の陶芸家たちを呼び込んだ。

 その名残で、現在の窯元の95%は作家系で占められているといわれている。

 「◯◯焼はこうあるべき」といった型にとわられず、作家たちが自由な活動を行ってきたことが、窯ごとに表情が異なる、現在の笠間焼の幅広さに繋がっている。

 笠間の焼き物あれこれ
 笠間焼に使われる笠間粘土は、花崗岩 (かこうがん) (※)質であり鉄分を多く含む。そのまま焼くと赤黒い陶器が出来上がる。

 ※花崗岩 (かこうがん)
 石英・長石・雲母などからなる火成岩の一種。石碑などに広く用いられる。別名 : 御影石

 江戸時代は釉薬の一種である「柿釉」と呼ばれる、赤みを帯びた色合いに仕上がる薬を使い水甕や壺を主に作った。明治時代には飴釉や青釉などの色味が加わり、すり鉢と茶壺が主力製品となる。

 昭和以降は新たな陶芸家を誘致し、伝統的な製法だけでなく個性あふれる作品が増え、インテリア製品までアイテムの幅が広がった。

 現在の笠間焼は、制作される焼物の種類も一層広がりを見せ、近年では、贈り物や結婚式の引き出物などといったオーダーメイドの受注が人気の窯元も登場している。

 笠間焼の歴史
 ◯信楽焼の流れをくむ関東最初の焼き物産地の誕生

 江戸時代中期の安永年間 (1772〜1781年) 、笠間藩・箱田村 (現在の笠間市箱田地区) の名主であった久野半右衛門 (くの・はんうえもん) が、信楽焼の陶工の指導を受けて開窯したことが始まりとされる。

 その後、久野家を含む6窯元が笠間藩の御用窯である「仕法窯」に選ばれ、藩の保護下で産業として発展した。

 江戸時代末期の1850年頃には、関東の伝統ある焼き物産地笠間で修行した陶芸家たちが笠間焼の技術を近隣へ広めていった。なかでも益子焼は笠間の陶芸家が栃木県益子で開窯したこときっかけに生まれたとされ、産地として兄弟関係にあたる。

 ◯明治維新後

 江戸時代に発展していた笠間焼も、明治時代に入ると一時低迷。

 そんな中で復興に尽力し中興の祖と呼ばれた人物に、行商の身であった田中友三郎がいる。

 田中友三郎は笠間焼の主力製品としてすり鉢と茶釜の知名度を上げ、積極的に販売した。それまですり鉢は備前産が名をあげていたが、努力の甲斐あり「頑丈で安い」と高い評価を受けるようになった。

 1868年 (明治10年) の内国博覧会では、笠間焼の茶壺が一等を受賞。全国で笠間焼の名が知られるようになり、さらに知名度を上げた。

 1889年 (明治22年) の水戸線開通で列車を使っての運搬が可能になったことで販売経路が東日本一帯へと広がり、笠間焼は隆盛期を迎える。

 販売の増加に伴って、主力製品のすり鉢・茶壺にとどまらず、甕・壺・徳利・行平・火鉢・土瓶・湯たんぽなどの様々な日用品が生産されるようになった。

 ◯戦後

 終戦後、プラスチックの登場や工場での大量生産など、時代の変化によって笠間焼の需要は減り、今までに無いほどの窮地に追い込まれる。これは焼き物需要の低下だけでなく、産地のまとめ役である「問屋」が笠間に無かったことが大いに関係すると言われている。

 そこで動いたのが行政である。茨城県は業界の要望で1950年 (昭和25年) に県立窯業指導所を設立し、試験・研究・指導機関としてスタートした。また笠間市は地場産業の窮地を救うべく「芸術の村」建設の政策に踏み切った。

 「芸術の村」を作り上げる政策のなかで、陶芸家を誘致するため、1963年に陶芸団地、1972年に窯業団地を建築。そのお陰で若手の陶芸作家たちが集まり、笠間焼の活気を取り戻すとともに、伝統に縛られた作風だけではない自由な制作を可能とする風潮を作り出すことに成功。

 1992年 (平成4年)、笠間焼は国の伝統的工芸品に指定された。

*https://story.nakagawa-masashichi.jp/craft_post/116949 より

*https://kougeihin.jp/craft/0403/ より

 

 「笠間焼(かさまやき)」は、茨城県笠間市周辺を産地とする陶器。

 概要
 江戸時代中期の安永年間(1770年代)から作られ始めた。箱田村の名主久野半右衛門道延が始めた「箱田焼」と山口勘兵衛が始めた「宍戸焼」が笠間焼の源流と言われている。後に、笠間藩の牧野貞喜や牧野貞直は窯業を重要視し、生産増加と陶技を後世に継承する目的で御用窯「仕法窯」が指定され、甕やすり鉢などの日用雑器が作られた。幕末から明治にかけては江戸(東京)に近い利点から大量生産の機会を得て、技術者や従事者も飛躍的に増えた。特に、陶器商の田中友三郎の活躍は笠間焼の販路を広げる役割を果たした。以後、時代の転換にともなって生産品の変化などを経て、現在では300人に近い陶芸作家や窯元のいる窯業産地となっている。関東地方では、益子と並ぶ大きな窯業産地として知られている。

 1992年(平成4年)に経済産業省より、「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」に基づく経済産業大臣の指定を受けた工芸品に指定されている。

 特徴
 関東ローム層から出土する笠間粘土によって作られる。笠間粘土は笠間地区から筑波山にかけて産出する花崗岩(御影石)が風化堆積して生じた粘土であり、粘土は粘りが強く、成形しやすいだけでなく、鉄を含むため焼成後には有色となる特徴がある。

 「特徴がないのが特徴」と言われているが、これは太平洋戦争後、先人の仕事を尊重しつつも伝統にこだわらない自由な作品が作れる笠間の気風を求めて、各地から若い陶芸家たちが集まったためである。現在では安価で実用的な水瓶や徳利から、芸術的で斬新なデザインのオブジェまで多種多様な焼き物が焼かれている。

 笠間焼はイノベーションの成功例として高く評価されている。「差別化・高付加価値化」による競争優位を形成し、産地の競争力を高めた点や、企業数の増加や生産額の増加、観光客の増加などを通じて地域経済産業の活性化に貢献した点、作家が中心となったイベントや祭りなどを契機として地域コミュニティの再生や地域文化の創造などといった地域の活性化にも寄与した点が評価されている。

 イベント・施設
 笠間焼は観光資源にもなっている。春に行われる陶炎祭(ひまつり)には約50万人、秋に行われる陶器市である笠間浪漫にも多くの観光客が足を運ぶ。

 JR笠間駅の東側にある「笠間芸術の森公園」は陶炎祭の会場に使われるほか、茨城県陶芸美術館、「笠間工芸の丘 KASAMAクラフトヒルズ」、作品の野外展示エリア「陶の杜」、茨城県工業技術技術センター 窯業指導所「匠工房・笠間」がある。芸術の森公園や笠間駅には「笠間やきもの散歩道」が整備されているほか、陶芸体験を受け入れる窯元もある。

 著名な作家
 松井康成

*Wikipedia より


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