第157回 2017年4月18日 「魅惑の青と白 華やぐ器~長崎 三川内焼~」リサーチャー: 相楽樹
番組内容
今大人気の豆皿がある。直径10センチほどの白磁に青色の絵付けが施されているが、伝統的な柄からモダンなデザインまで様々。そのいずれもが美しく細やかなのが特徴だ。これは長崎県の三川内(みかわち)焼から生まれたもの。三川内焼は400年の伝統の中で、精緻な絵付け、華麗な装飾、極薄の器成形など様々な超絶技巧を磨き上げてきた。知られざる産地から生まれるイッピンの数々と驚くべきワザを相楽樹が徹底リサーチする。
*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201704181930001301000 より
佐世保東部に位置する三川内(みかわち)。
ここは、古くから焼き物の里として、数々の旧所・名所が点在している町です。
「三川内焼」は、16世紀末、当時の平戸藩主の松浦鎮信が「朝鮮の役」の時に平戸に連れ帰った陶工達に焼き物を作らせたのが始まりとされます。
そのため「三川内焼」は、別名「平戸焼」とも言われています。
その後、良質の陶土を求めて陶工達が辿り着いたのが三川内です。
平戸藩は、南蛮交易により財政が豊かであったのですが、オランダ商館が長崎出島に移動したことにより、交易の利を失いました。
藩の奨励により、幕府や他藩への献上品として用いられたため、質の高い製陶が行われ、繊細・優美な絵付けは三川内焼の代名詞になります。
生地の一部をくり抜き、模様を表す「透かし彫り」や器を立体的に飾る「貼り付け」など細工の技術も発展します。
御用窯が年と共に盛大になると、藩は販路を海外に求め、輸出用陶磁器の開発に努め、薄手のコーヒー茶碗等が開発されました。
江戸時代、貿易のため滞在していたオランダ人の間で好評を得て大量に輸出されました。
1867年に江戸幕府は、フランスの要請で「パリ万博」に参加。
佐賀藩の出品物の中に平戸藩三川内焼製造の「舌出三番叟人形」があり、その人形はナポレオン3世妃ウジェニーの目に留まり
多く買い求められました。
文化元(1804)年には、オランダや中国に輸出されて、海外の王侯貴族に愛されました。
明治維新後は、凋落は目に見えてひどかったようですが、明治32(1899)年三川内焼の伝承の技を守るために三川内山に意匠伝習所が創設されます。
三川内御用窯の優れた技術は伝習所の指導の下、若い陶工達によって受け継がれ、これに新しい意匠考案が加えられて、今日の「三川内焼」に伝承されています。
そして今大人気なのが豆皿。
直径10cm程の白磁に青色の絵付けが施されていて、伝統的な柄からモダンなデザインまで様々。
そのいずれもが美しく細やかなのが特徴です。
1.嘉久正窯(8代目窯元・里見寿隆さん)
里見寿隆さんは350年以上続く嘉久正窯の8代目です。
パンダの綱引きなど現代的なものも含め、様々な意匠を表現していらっしゃいますが、特に「菊の花」は三川内焼を代表する絵柄です。
三川内焼の原料は「天草陶石」。
鉄分が少なく美しい白さを醸し出します。
絵付けの顔料は焼くと藍色になる「呉須」を使って輪郭線を描き、「濃み」(だみ)というぼかしを入れます。
里見さんは「濃み」(だみ)を使わずに、骨描きだけでシャープな印象を与えたり、ポップな絵柄にも挑戦しています。
今、三川内では、最高品質と讃えられた「平戸焼」の素朴な素材感と高度な技術を復興する新たな取り組みが始まっています。
その名も「NEO-MIKAWACHI」。
そして、里見さんはプロジェクトで中心的な役割を果たしていらっしゃいます。
里見さんがまず行ったことは原料の見直し。
「三川内焼」と言えば、純白の白磁が印象的なのですが、意外にも平戸焼の時代の器は純白ではなく、白濁が強くやわらかな風合いが特徴だったそう。
里見さんも、これまで「天草陶石」を使い、原料を見直すことなどなかったそうですが、再興に当たり、「天草陶石」に「網代陶石」を混ぜ、江戸時代と同じ原料を作ることから始めました。
そして江戸時代の器は見事に再現。
再興することで先人達の技術の高さを知り、自分達の今ある技術レベルを確認出来たのは大きな収穫だったとおっしゃっていらっしゃいました。
2.平戸洸祥団右ヱ門窯(18代目窯元・中里太陽さん)
18代目窯元・中里太陽さんは菊花飾細工を「菊花飾細工のイヤリング」などモダンな製品に応用しています。
菊以外にも、桜など様々な柄を作り、その模様の美しさが好評を博しています。
菊花飾細工は、天草陶石の磁土が乾かないうちに花の形を切り出し繊細な菊の花を表現したものです。
3.平戸藤祥(13代目窯元・藤本岳英さん)
平戸藩主の「箸より軽い器を作れ」という命令から生まれた「卵殻手」。
「卵殻手」は出島に寄港したオランダ人達の目に留まり、「egg shell」(エッグシェル)としてヨーロッパに輸出されるようになりました。
しかし、時代の変化と共に需要が減り、明治時代半ばには、「卵殻手」をつくる職人がいなくなり技術が途絶えてしまいました。
それを、およそ100年ぶりに復活させたのが、平戸藤祥13代目の藤本岳英さんです。
復活に取り組んだのは10年前。
先祖が江戸時代に作った「卵殻手」を見つけたのがきっかけでした。
極薄の器を作る技術の高さに感銘を受け、失われた技術の謎を解き明かしたいと研究を始めます。
地域の先達たちに話を聞いて回り、その記憶を手掛かりに、土の調合を変えたり、成形を工夫したり試行錯誤します。
そして辿り着いたのが長崎県佐世保市の針尾島網代地区で産出する「網代陶石」を「天草陶石」と調合すること。
これが、「卵殻手」が復活する足掛かりとなり、研究を始めておよそ4年後、平成18(2006)年に「卵殻手」の復活に成功します。
「卵殻手」は、手ろくろで成形した後、極限まで削って薄くします。
ランプで光を透かして確認しながら均等に薄くなるように、慎重に削っていきます。
成形した生地を乾燥させたら、次は染め付けです。
染め付けは、奥様の江里子さんが担当します。
「絵付け」は、硬く焼き上がったものに描きますが、「染め付け」は、焼き上げる前のはかない生地に描かねばなりません。
釉薬を塗る前なので、薄さも仕上がりの1/3程です。
現代に甦った「卵殻手」は大きな注目を集め、平成19(2007)年にはスウェーデン国王王妃両陛下に平成21(2009)年には、現在の天皇陛下(当時:皇太子殿下)に献上されました。
「卵殻手」の復活は、新たな技法、平戸藤祥独自の「結晶釉」の開発にも繋がりました。
更に、「亀山焼」が復活するきっかけにもなりました。
「亀山焼」は長崎奉行所の指示で作られたものですが、製造された期間が約50年と短かかったため、“幻のやきもの”と言われています。
*http://atmarymead235.seesaa.net/article/449123814.html より
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