アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

澄んだ目と濁った目 どっちも幸せ…

2010年09月13日 | Weblog
  藤原正彦さんの自伝的小説「ヒコベエ」のあとがきに…
 …幕末から明治にかけて数多くの欧米人が日本を訪れ多くの印象記を残した。それぞれが様々なことを書いたが、全ての人に共通していたのは、「皆貧しそうだが、皆しあわせそうだ」と、一様に驚愕したことである。
 そんな社会を私は、終戦後、この目で見たような気がする。隣近所でも我が家でも、御飯に味噌汁だけの食事をしながら、時には御飯に醤油をかけるだけの生活をしながら、いつも笑い声が絶えなかったのである。家族が支え合い励まし合い、近隣が助け合い、生きていた。少なくとも日本人については、このような強い愛と絆さえあれば、どんなに貧しくとも幸せと感ずるのではないか…。

 しかし、藤原さんとしては、この頼みの綱である、「愛と絆」が擦り切れてきている日本を十分認識しておられる。あとがきに、次の文が続く。

 昭和20年代とは、どの家にもそれしか他になにもない時代だった。その中で、日本人が、そして日本が輝いていた。昭和20年代のあの力強い輝きを読者が少しでも感じ取ってくださればと思う。

 「この国のけじめ」「国家の品格」他でも同様だが、「おいおい、日本の愛と絆が危ういよ。あの頃を取り戻そうよ」という主張が貫かれている。私など、御飯に醤油をかけて食べたので、藤原さんの思いは100%理解できているつもりです。確かに、麦めしに醤油をかけただけの夕食のあと、家族団らんで腹を抱えて笑っていました。腹筋が痛くなり、「腹痛い、腹痛い」といいながら笑い転げていました。

 昭和30年代に小学生でした。給食は始まっておらず(途中から、スキムミルクが給食時に供されるようになった)、昼食は弁当でした。弁当箱のアルマイトのフタを立て、弁当の内容を見られないように隠して食べました。なぜかって?弁当のおかずが貧しくて、人に見られたくなかったから。麦飯だけの子もおりました。それでもみんな、学校へ来るのが楽しみで、温かい家へ帰るのが楽しみでした。

 「世界の貧困地域、貧しいけれど人の心は豊かです」こういう表現に出くわすことがある。このように書くのが「一流の日本人」であるかのように。「豊かな日本に失われたものがあるだろう!」ということを示唆しようというのか?そうだとしたら、違う話なので言わないほうがいい。「途上国の子供たちは貧しくとも目が澄んでいて生き生きとしていました。屈託のない笑顔が幸せそうでした」…貧困も何も分かっていないだけの話なのに。野良犬だって尾を振りますよ。

 「御飯に醤油をかけて食べた日本の子」と、「澄んだ目をした途上国の子」を「幸せ」というキーワードで一緒にしてはなりません。私も、発展途上国や新興国で、物乞い同様の子供をたくさん見てきました。どの子もみんな澄んだきれいな目をしていました。澄んだきれいな目は、暴力団も同様です。空港で暴力団の集団と出くわしたことがありましたが、皆、澄んだ美しい目をしていました。ですから、澄んだ目は、「幸福か否か」「心が豊かか貧しいか」の判断材料にはなりません。

 世界の貧しい地域…人の心はすさみ、犯罪が多発し、澄んだ目をした子供とて油断ならない。お金が欲しくて必死。衣食足りてはじめて、礼節を知るのです。つまり、貧しい地域の子でも、目が澄んでいるから幸せだなどという、いい加減なこととを言わないでいただきたいものです。
 御飯に醤油をかけて食べた日本の子は、貧しさ故に罪を犯すなどということは一切なかった。家族愛、家族の絆がしっかりしていたから。

 少年期を、御飯に醤油をかけるだけの食事で過ごした私。半世紀を過ぎた今、目は澄んでいるか?実は、血圧の関係らしく、白目部分の血管が切れる。そのため、いつも真っ赤な濁った目をしています。し、しかし、し、幸せです今でも。