アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

売り上げに協力するのが謝意の表現?何様ですか?

2020年12月21日 | Weblog
 カミサンが、10種類ほどのせんべいを買ってきました。
「せんべいばかりこんなにたくさん?どしたの?」
 「私にできることは、これくらいのことで…」(せんべいを買ったのが自慢らしく、鼻の穴が膨らんでいる)

 大雪による大規模な交通障害が発生していた関越自動車道に、他の車と共に立ち往生した魚沼運輸のトラックがあった。積み荷は、岩塚製菓の「せんべい」。岩塚製菓は、積み荷のせんべいを、立ち往生している車の人々に提供することを急遽決定。連絡を受けた運転手さんは、周囲の車に配布した。

 この岩塚製菓のせんべいを受け取った人が、受け取った「黒豆割りせん」「えび黒こしょう」などの写真と共に、Twitter投稿で…
 「関越道で立ち往生して22時間が経ちました。支援は一度もきていません。その代わりトラックの運転手さんに、会社から承諾を得たからとお煎餅をいただきました。岩塚製菓さん運転手さんありがとうございます」と感謝の言葉を書き込んだところ、大きく拡散され、各メディアでも報じられた。

 このニュースに感動したカミサンが、郵便貯金をおろして、岩塚製菓のせんべいをたくさん買ったというわけ。ただ、カミサンはおっちょこちょいなので、岩塚製菓以外のせんべいの方が多かった。それを指摘すると悲しむでしょうから、一切触れませんでしたよ。

 岩塚製菓は、新潟県長岡市に本社を置くせんべい屋さん。この度の対応の早さでも解るとおり、ただのせんべい屋さんではない。経常利益の大部分は、株式(中国株)の受取配当金で、22億円を超える(2019年度)という。
 なぬ?「な~んだ、せんべいじゃなくて株で儲けているのか」って?そ、そうなんですが、そこへ行き着くまでの経緯を説明するためには、40年近くも遡らなければなりません。岩塚製菓の創業者の一人が、中国の食品会社ワンワンチャイナ(中国旺旺)で、せんべいつくりの技術指導をしました。それがきっかけで、ワンワンチャイナの5%の株を持つ大株主に。「お金儲け目的」で、ワンワンチャイナに技術指導したのではないっ!懇切丁寧、血の通った技術指導が、中国の人の心に響いたのです。
 そういう会社だから、積み荷のせんべいを、立ち往生している車の人々に提供することを急遽決定した!

 なお、「話に感動して、岩塚製菓に小市民からの謝意を伝えるべくせんべいを買ったカミサン」に、感動を増幅させてあげようと、「ワンワンチャイナ」の話をした。さらに感動して、またぞろ追加のせんべいを買いに走るかと思いきやぁ…「ドッグフードなの?中国では、犬にせんべいを食べさせるの?」と…。「ワンワン=犬」という鉄壁のステレオタイプから抜け出すなんてこと…カミサンに期待するほうが無謀でしたぁ。

 大雪などで立ち往生したときに、積み荷の食料を配るという「神対応」の元祖は、ヤマザキパンですね。私の知れる限りでは、2度(2014年と2018年)。一昨年、北陸地方を襲った大雪の影響で、福井県内の国道8号で起きた車の立ち往生の時には、およそ、4万6,900個のパンを配ったという。なぬ?「トラックに4万6,900個のパンを載せていたのか」って?たまたま、物流拠点が国道8号沿いにあったこともあり、十分なパンを用意できたという。
 「非常時に食べ物がなくて困っている人がいて、本来のところに届けられないパンがあるということがあるならば、活用しようというのは当然の判断になります。賞賛の声なども出ていることを把握しておりますが、特別なことをしたというようには考えておりません」
 私の胸にある「日本人像」は、まさしく、このような考えができ、実践できる人なんですけどね。

織田信成さんはアイスダンスをしないのか?

2020年12月21日 | Weblog
 高橋大輔(34歳)さんが、村元哉中(27さん)とのペアで、アイスダンスデビューしましたねぇ!
 高橋大輔さんは、元気な姿を見せてくれましたが、織田信成(33歳)さんはどうしちゃったのかなあ。

    織田さんは、関西大学のスケート部の監督を務めていましたが、2年足らずで止めちゃいましたよね。辞めた理由が、「スケート部のコーチによるモラハラ」。監督がコーチにモラハラ…これなら、「さもありなん」なのですが、「コーチが監督にモラハラ」これは、織田さん限定でしょう。よほどコーチ(濱田美栄さん)が怖かったらしく、織田さんは「モラハラうけましたぁ」と、しゃくり上げて泣いておりましたよね!モラハラの内容は、「無視される」「陰口を言われる」…そりゃあ、泣くよね。

 織田信成さんは、修士様。しかも、スポーツとは縁遠いようなぁ文学修士。「関西大学大学院文学研究科博士前期課程総合人文学専攻身体文化専修修了」漢字の羅列っ長っ!学歴を紹介するのに、漢字が33文字ですよ!さすが、文学修士!?
  その、織田信成文学修士が、織田信長の子孫という話はあまりにも有名。系図によると…
 「初代織田信長→二代信高→三代高重→四代一之→五代信門・・・中略・・・ 十三代豊春→十四代重治→十五代信義…で、信成は次男」
 ※二代信高というのは、信長の後継という意味の二代ではなく、織田信成さんの初代を信長とすれば、二代目が信高ということ。史実としての信長の二代目(清洲会議で決まった)は、秀信。幼名三法師。
  二代信高は、信長の八男。ちなみに…信長の子といわれている男子は12人…。十二男(じゅうになん)までいたらしい。女の子もたくさんいたようです。

  織田信成文学修士が、織田信長の子孫ではないという論を展開しようとしているのかって?とんでもない!「家系図」などというものは、誰でも勝手に作ることができるものです。文学修士様が織田信長の子孫であろうがなかろうが全く興味がありません。
  ただ…織田信成文学修士のご先祖様なんですが、私はてっきり信雄(のぶかつ)だと思っていました。この度、信高の子孫だったと知って…少々「?!」でした。今も日本に続いている織田信長の血筋は、「信雄」の子孫しかいないと思い込んでいたもので…。まさか、信高の子孫がいたとはね。

  信雄はあまり耳にしないって?織田信長と長男の信忠が本能寺の変で討たれたため、重臣たちが織田家の家督相続人を決めた清洲会議。ここで後継に選ばれたのは、羽柴秀吉が推挙した信忠の遺児、三法師でわずか3歳だった。柴田勝家(織田家筆頭家老)が推したのは三男の信孝だった。つ、つまり…信長の二男信雄は、誰にも担がれることがなかった。これ、おもしろいでしょう!私は、秀吉も勝家も、「信雄を信長の後継にすると、自分たちの思い通りにならない」と判断したんじゃないかと思っていますがね。信雄は、なかなかの策士だったらしい。

  で、秀吉と勝家が戦った「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」で、信雄は信孝にいちゃもんをつけて切腹させているんです。信雄は、秀吉についてみたり、家康についてみたり…よく言えば時代の趨勢を読んだ。悪く言えば、なりふり構わぬ日和見主義者。それが幸いしたのか、信長の子で、江戸時代に大名として生き残ったのは信雄ただ一人。だから、てっきり文学修士は信雄の子孫かと…。うーん、漢字が多い文章でしたぁ。