動物愛護っていう言葉自体が上から目線だよねって、話がちょっとズレてますか(笑)
内海さんのFBより
*転載はじめ*
対立するクソシリーズ3(動物愛護と食)
私はある意味において菜食主義とか動物愛護の人々が嫌いだ、といつも述べていますが、別に存在するのも自分が菜食になるのもかまいません。
ただ栄養不足で病気になりやすいので、自己責任でやってください、病院は救急時以外利用しないでねと言っているだけですが、現状では動物愛護者の差別心は外から見ていてもっとも醜くなっています。
彼らはそれを聞く耳などもっていませんが、どこかで誰かが指摘した方がいいのでしょう。
菜食主義には大きく分けて二つあり、一つは動物を食べるのが体に合わないという人々、そしてもう一つは動物がかわいそうだから食べないという人々です。
私は前者は全くかまわないし、後者も自分だけでやるならかまいません。
しかし動物愛護者ほどそれを他人に押し付けようとし、あまつさえ子どもにさえそれを押し付けようとし、さらにいえば生物学的な歴史もすべて無視し科学さえもすべて無視するという、完全な悪魔的宗教にまで陥っているところが問題です。
しかし動物食というかこれまでの人類の歴史通りの雑食をする人々も、先住民や野生動物の摂理に従って食べているとは言い難いです。
本質的に動物愛護を否定するなら、せめて畜産養殖することの問題はとらえる必要があります。
動物食をするなら自分でさばけるかどうかも重要です。
よく動物愛護者は自分で殺すとほとんど食べれなくなると言いますが、私はまったく問題ありません。
医者だから人間サバイテきたので当然ではありますが、先住民がさばいてきたのと同様に思想を持つことができるからです。
私たちは動物食がどうとかいう生物学的に愚かしい嘘を並べる前に、動物を殺し動物を食べるのがかわいそうで、植物を殺し植物を食べるのはかわいそうではないという世界最凶の欺瞞、植物には心がないというという欺瞞、に向き合う必要があります。
ニンゲンだけでなく生物全体が殺して食べる以外に生き残る方法はなく、私なら自分と自分の子どもが生きていくためには、狩猟でも採集でもなんでも実践するだろうことを考慮する必要があります。
動物を助けようとする自分に酔い、植物は声を上げないのでかわいそうではないという精神は、結局のところ自分が正しいと思い込みたい人類最凶最悪の思想につながっています。
いつも言うように、生きるために何を食べるかのチョイスなどより、生物界の原則に従うなら先にやることが人類にはあります。
畜産の育て方、殺し方、不自然な味付けや抗生剤やホルモン剤のやワクチン、ペット産業、殺処分(そもそも犬猫だけかわいそうというのも問題だが)、獣医産業、そして何より食料廃棄と人類の数です。
私は人類削減論賛成論者、それを反対するのは一部の人間が戦争や医療殺人によって行うことの問題であり、教育によって先住民と同じように、自分たちの人口も考えなければいけません。
そして便利と欲望によってもたらされる食料廃棄をやめれば、あらゆる生物の9割は無駄に殺されることがなくなるでしょう。
ここで重要なのは、動物食がベジが動物愛護が不食が言っているのであれば、相手や一市民をディスっているよりやることがあるだろうとことです。
我々ニンゲンは生物の輪の中の一つに過ぎず、死ねば土か灰として微生物に食べられるのがサダメです。
それを崩しているのは自分たちであり、大企業であり、国家であり、便利さであり欲望です。
なぜどちらの人々であっても、狭い社会の中でお互いをディスりあうことしか考えないのか、それこそが奴隷の奴隷たる証であり、貴族に立ち向かう自立心を捨て去っているのか、人類が真に進歩したいなら考えたほうがいいでしょう。
*転載おわり*
神はなぜに動物や植物や人間をお造りになったのか。
神はなぜに食べるという行為をお与えになったのか。
なーんてね
自分でさばくと、命の大切がわかるという。
どっかの高校で、鶏を育ててさばき料理することを授業に取り入れてるのをみたことがあります。
命と向き合う。
きれいごとのの話ではないのです。