アマゾンわんわん日記 2018

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また よろしくお願いします。

「水」そして「空気」たるもの

2013年07月22日 | 人間
夜中の12時半、娘を迎えに空港まで行きました。
いつもなら、日曜日のこの時間なんて、空港へのアクセスはスイスイ、のはず。
ですが、昨夜は、駐車場へ入るところで、車の列が続いている。

渋滞?!

この時間にまさかね。

なんて思っていたのですが、駐車場から空港ロビーへ入る通路は、大きなスーツケースを持った人であふれかえっています。
どうしたの、これ?
もう、7月お休みも終わりのはずなのに。

空港ロビーに入って、なぞが解けました。
ロビーには、おそろいのTシャツを着たグループがいっぱい。
リオで行われる、キリスト教カトリック世界青年大会へ参加する若者達です。
明日は、ローマ教皇がバチカンから到着する日ですものね。
明日から一週間、リオデジャネイロ市内では、さまざまなキリスト教のグループのイベントが催されます。

それに合わせて、ブラジル中から、世界中から敬虔なキリスト教カトリックの若者達が集まります。
推定では、600万人の若者達が集まる見込みだとか。
マナウスからも2000人の若者達が参加を予定しているとのこと。
もちろん、マナウス市内ばかりでなく、近郊の町、内陸の村からも、参加が予定されています。

彼らは、1年以上をかけてお金をため、この日を楽しみに準備してきたということです。
そんな彼らを詐欺にかける旅行社も出ました。
ネグロ河対岸のイランドゥーバから参加予定だった3人の女の子達。
往復の飛行機代、宿泊費など、一人1万レアイス(約50万円)を、1年以上かけてこの日のためにせっせと支払い続けてきました。
で、昨夜空港に行って、いざ搭乗手続き...というところで、飛行機の搭乗名簿に名前がないことが発覚!
テレビのニュースで取り上げられたこの旅行社、「手違いでした」とのコメント。
今日の夜の飛行機で3人は無事にリオにいけるとのことですが、さて、どうなることか。

以前、書いたことのある話題ですが、現在、ブラジルでは「カトリック人口」が激減しています。
そのかわりに増えているのがこちらで「エバンジェリコ」と称される、「福音派教会」?だそうです。
すみません、この辺詳しくないので、間違っていたらごめんなさい。
それでも、今回のカトリック世界大会の盛り上がりは、ブラジルにおけるキリスト教カトリック派の勢いを見せ付けられるようです。

今回のこのイベントで、ふと思い出した「言葉」がありました。
本当に長い間まったく忘れていた言葉です。

ブラジルの学校では、多くの学校でキリスト教の宗派とかかわっています。
娘が幼稚園から通っていた学校も、カトリックの学校でした。
「宗教」の授業がありますが、「強制」というわけでなく、一応保護者のほうに「参加させてもかまわないかどうか」、伺いを立ててくれます。

我が家は夫はほぼ無宗教、私は一応仏教徒(曹洞宗)を自称しています。
私の場合、日本にいたときは、座禅とかお説教を聞きに行ったりとかしていた時期がありましたが、ブラジルに来てからは、ほとんどそんな機会もなし。
そんな両親ですから、生まれたときから娘に決まった宗教を持たせようという気はありませんでした。
ある程度物心がついて、自分の意思で宗教を選べるようになったときに、自分の宗教について考え、選んでくれればいい。
そう、私も夫も思っていました。
いえ、今でもそう思っています。

そうしたら、その学校の先生(どの先生だったかは忘れてしまったのですが)が私に言ったのです。

「ペケママ、宗教は「水」や「空気」と同じなのよ。」

「水」や「空気」は理屈で選ぶものではない。
「水」や「空気」がなかったら、死んでしまう。
といって、人々は「水」や「空気」があることを、日々の生活の中で、ことさら意識はしない。

彼ら「ブラジル人」にとっての「宗教」はそういうものなのだと私に言いました。

ずっとこの言葉を、いえ、こういうやり取りがあったことさえ、忘れていました。
最近、いろいろなことがあって、そして、今回の「カトリック世界大会」があって、この言葉が記憶の底からそれこそ「ぽんっ」っと音を立てて浮かび上がってきました。

同じような言い方をするなら、さしずめ、私の考えている「宗教」は「洋服」のようなもの?
まずは、色々な角度から眺めて、自分に合うかどうかを検討して、良く確かめてから身に着ける「洋服」のようなもの。

どちらが「適切」とか「不適切」というものではなく、これはまさに私が育った「日本」と現在生活している「ブラジル」の社会環境の中の「宗教」の意味合いがまったく異なるために起こった「違い」だと思うのですが...


「宗教は「水」や「空気」と同じようなもの」

一度浮かび上がったこの先生の言葉、それ以来私の頭の中をずっと漂っています。
私にとって「宗教」という言葉の意味合いが、依然とは少し違ったものになってきているような気がします。
その話は、また今度ね。

コメント
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