桶狭間の戦いに向けて、織田信長の足跡を丹下砦・善照寺砦・中島砦とたどってきました。
また、今川義元が前夜泊まった沓掛城へも足を運びました。
そして、いよいよ満を持して、桶狭間の合戦地へ向かいました。
ところで、桶狭間の合戦地跡は、2箇所あります。
愛知県豊明市にある桶狭間古戦場伝説地と名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園です。
もっとも、両者は1.2kmしか離れていないので、この辺り一帯で合戦が起きたと考えて間違いないでしょう。
たまたま、現在では2つの自治体に跨がっているので、史蹟が2つになっちゃいました。
まずは、豊明市側の桶狭間古戦場伝説地へ訪れてみました。
国道1号線沿いにある名鉄中京競馬場駅から南へ100m行ったところにあります。
そして、いよいよ満を持して、桶狭間の合戦地へ向かいました。
ところで、桶狭間の合戦地跡は、2箇所あります。
愛知県豊明市にある桶狭間古戦場伝説地と名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園です。
もっとも、両者は1.2kmしか離れていないので、この辺り一帯で合戦が起きたと考えて間違いないでしょう。
たまたま、現在では2つの自治体に跨がっているので、史蹟が2つになっちゃいました。
まずは、豊明市側の桶狭間古戦場伝説地へ訪れてみました。
国道1号線沿いにある名鉄中京競馬場駅から南へ100m行ったところにあります。
桶狭間古戦場伝説地
所在地: 愛知県豊明市栄町南舘11
回遊式庭園のように整備されており、いろいろな碑が置かれています。
史跡指定標柱
1938(昭和13)年4月、豊明村は文部大臣から史跡「桶狭間古戦場伝説地」の管理者に指定されました。
これを受けて1941(昭和16)年10月に史跡指定標柱を建立しました。
国の史蹟というのが豊明側のアピールポイントです。
七石表
古戦場伝説地の中で一番古い史跡で、義元以下7名の武将が亡くなった場所を記したものです。
1771(明和8)年に尾張藩士 人見弥衛門・赤林孫七郎により建立されました。
所在地: 愛知県豊明市栄町南舘11
回遊式庭園のように整備されており、いろいろな碑が置かれています。
史跡指定標柱
1938(昭和13)年4月、豊明村は文部大臣から史跡「桶狭間古戦場伝説地」の管理者に指定されました。
これを受けて1941(昭和16)年10月に史跡指定標柱を建立しました。
国の史蹟というのが豊明側のアピールポイントです。
七石表
古戦場伝説地の中で一番古い史跡で、義元以下7名の武将が亡くなった場所を記したものです。
1771(明和8)年に尾張藩士 人見弥衛門・赤林孫七郎により建立されました。
大正天皇の即位を記念して有松町によって建てられた標柱
桶狭弔古碑
1809(文化6)年、津島の神官氷室豊長が建てた記念碑です。
古戦場が放置され荒れ果てていくのを嘆き、その由来を明らかにするとの趣旨が、裏面の碑陰記に記されています。
今川治部大輔義元墓
弔古碑を義元の墓と間違えて手を合わせる人がいたため、1876(明治9)年に建てられたものです。
駒つなぎのねず
義元の馬をつないだとされるねずの木
歌碑
江戸後期の歌人香川景樹は、おのれの歌風を江戸にも広めようと意気込んで出府しましたが、むかえられませんでいた。
失意をいだいての帰途、桶狭間をとおり、義元の気持ちをくみ、自身のこころにひきあてて一首読みました。
「あと問へば昔のときのこゑたてて
松に答ふる風のかなしさ」
道を挟んだ西にある高徳院の境内にも、いくつかの碑が置かれていました。
今川義元仏式の墓
1860(万延元)年に建てられました。
方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく墓塔型式であり、そのため仏式の墓と呼ばれています。
お化け地蔵
1853(嘉永6)年、尾張藩士が建立しました。
それまでは亡霊の現れる話が伝えられていましたが、この地蔵尊の建立により現れなくなったそうです。
徳本の名号
桶狭間の犠牲者を慰霊するため文化文政期の徳本行者が建立したと案内されています。
おまけ
桶狭間古戦場伝説地の近くにある名鉄中京競馬場駅前にあるゴリバーガーにて、ランチをいただきました。
ランチは、好きなハンバーガーにサラダ・スープ・飲み物がついて1000円でした。
このハンバーガーが無茶苦茶大きくて、しかも肉々しておいしかったです。
プラス100円でフライドポテトがつきますが、これは余分でした。
このハンバーガーが無茶苦茶大きくて、しかも肉々しておいしかったです。
プラス100円でフライドポテトがつきますが、これは余分でした。
桶狭間古戦場伝説地へ行かれる際には寄ってみてはいかがでしょうか。