デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ここしばらく出張の移動中でも本を読めずにいたが、今月になってようやく、2作品読了できた。
ジョン・アーヴィング『ピギー・スニードを救う話』のエッセイにあったディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』と、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』である。
両作品とも名作とされているが、率直なところ、時代の変化に伴いあまり読まれなくなった作品だとは思う。
『デイヴィッド・コパフィールド』は、長い分たしかに人物描写に長けていた。ディケンズの自伝的要素が濃い作品で、読み応えもあった。欧米人ならば、何かとインスピレーションを覚えるようなキャラもたくさん出てくる(有名なマジシャンの名前や、ロックバンド(ユライア・ヒープ)の名前など)ところもおもしろい。
ただ、先に『ジェイン・エア』を読んでいたこともあって、イギリスの小説って、こんなパターンばっかりか?といったような食傷気味になってしまった。

ゲーテの『若きウェルテルの悩み』は私も含め多くの人にとって、有名かつ何となくあらすじを知っているけれども、読んだことはない、という類の小説かもしれない。
この作品についてはそこまで興味はなかったが、トーマス・マンの『ワイマルのロッテ』を読もうとしたら、『ウェルテル』とゲーテの生涯を大雑把にも知っておく必要があることがわかり、仕方無しに手がけた。
『ウェルテル』は、「理想の人妻」に対して「天才」が己の身勝手な情熱をささげて懊悩するイタイ話なのだが、よく自分の実体験を小説に昇華したなと、また小説の構成で、3人の語り手を上手く使い分けているところなど、ただ感情だけで書きなぐったものではないと感心してしまった。
私個人は、今のご時勢においては若い人がウェルテルのような想いを抱くにも厳しいものがあるように思う。それに、作品の中のウェルテルの行動や性格を見て、虫唾が走る人もいるだろう。
しかし、若い頃にウェルテルのような気持ちを味わったことが無いというのも、それはそれで不幸なことかもしれない。

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