デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 





ドラクロワ「自画像」(1837年ごろ)

フランスを連想させる美術作品は何?と問われたとして、パッと思いつくものはいくつか候補があると思う。もしその問いの答えを集計したとしたら、「民衆を導く自由の女神」もきっと上位にランクインすると思う。この有名な作品を書いたのが、↑のウージェーヌ・ドラクロワである。
ドラクロワについて書かれている本には、彼が体こそあまり丈夫ではなかったにしろ完璧な社交家であったことが描かれているが、その内に秘めた精気や情熱はこの肖像画からも見て取れるとおもう。


ドラクロワ「フレデリック・ショパンの肖像」(1838)



ドラクロワ「オフィーリアの死」(1844)



上に、イポリト・フランドランの「海辺に座る青年」(1836)
右下に、シャセリオーの「エステルの化粧」(1841)



テオドール・ジェリコー「雌ライオンの頭部」

ジェリコー(1791-1824)は悲劇的な32年の生涯を送ったのだが、この人の存在なくしてナポレオン失脚後から二月革命(1848)までの「ロマン主義時代」の中の絵画はありえないだろう。
大雑把に書けば、ロマン主義は新古典主義のアンチテーゼとして生まれてきたようなものだが、このロマン主義の祖といってもいいのがジェリコーだ。
ジェリコーはその短い生涯に主に3作品しか世に問わなかった。しかし、ルーヴルにある超有名作「メデューズ号の筏(いかだ)」という大作は、当時の大いなるスキャンダルに留まらず、その後のロマン派の絵画を方向付ける意味で決定的な影響を及ぼした。


ジェリコー「メデューズ号の筏」491x716 cm

メデューズ号はイギリスから返還されたセネガルの植民地を運営するために、フランスからセネガルに向ったフランス海軍の船だが、1816年7月にアフリカの西海岸で難破した。即席で造られた筏に150人が乗り込み12日間漂流し、その間地獄のような凄惨な体験が彼らを襲った。生存者は15名だけだった。
ジェリコーは全身全霊を傾けて、この作品に取り掛かり、あらゆる資料を集め、どの場面を描けば最もドラマティックかを考えるために、難破事件のプロセス、筏上での殺し合い、人肉食、救出などの様々な段階のスケッチを試みた。
1819年、作品はサロンに出展され、評価は賛否両論の二手に分かれた。だが、1819年の政治状況では、作品はスキャンダルだった。ジェリコーには政府からメダルが与えられ新しい宗教画の注文を受けたものの、作品の買い上げはなかった。失望したジェリコーは注文を若いドラクロワに譲るのである。


ジェリコー「エプソムの競馬」(1821)

その後、イギリスを旅行したジェリコーは、上のような馬たちが躍動する作品も描いたりした。帰国後、精神病院の患者たちを臨床的な観察眼から描いた一連の肖像画を描く仕事もこなしたりした。
だが、「メデューズ号の筏」の不評から健康状態を損ねたジェリコーは、さらに二度の落馬での傷がもとで身体の障害を発した。彼は32歳の若さで世を去った。

ルーヴルで、圧巻だった「メデューズ号の筏」のみならず、完成にいたるまでのスケッチ、ジェリコーの華々しいデビューとなった「突撃する竜騎兵隊長」、そして「賭博偏執病者」などの一連の作品を見て、この人の大いなる寄り道ともいえるような作品群は、たしかに傑作をたくさん生むことは無かったものの、近代絵画にとって本当に貴重なものなんだということが分かった気がする。ドラクロワの前にジェリコーあり、後世に与えた影響は計り知れないと書かれるのも納得できたし、短い生涯でも彼の残した遺産はすばらしいものだった。

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