デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



今回の再鑑賞では、どういうわけかいろいろなことを考えてしまい、知らぬ間に時間が経ってしまう。なので考えたことの備忘録のようなものを書いておこう。

この作品は、あくまで身体が病気で蝕まれているロシア人の作家がイタリアの地にて、ロシアへのノスタルジーと記憶の断片の想起に苦しむ物語である、ということ。

映画は神秘主義的なものを鑑賞者に与えることがあるかもだが、いくつかの場面を除いて神秘的なものは鑑賞者が自身の中でつくりだしてしまう一印象にすぎないのかもしれない。

廃屋の雨漏りや水たまり、廃墟の中で白い彫刻の上を澄んだ水が流れたりする場面は、たぶん美術的効果を追求したものに過ぎないのだろうが、しかしそういったモチーフによってつくりだされたものが鑑賞者をさまざまな解釈を試みようとさせるものになってしまうのは不思議だ。

ホテルにチェックインして部屋に入ったアンドレイがベッドに腰を掛けたら画面が暗くなり、ロシアにいる妻が妊娠している頃の姿が映し出されるが、あの場面はフランチェスカの「出産の聖母」を見なかったこととは関係なく、ベッドに腰を下ろした動作によってアンドレイに記憶の間歇が起こったことの表現ではないかと思う。つまりアンドレイのイタリアの片田舎のベッドに腰を掛ける動作は、彼がロシアにいる頃、妊娠している妻が仰向けに寝ているベッドの淵に彼が何げなく腰を掛けた動作を彷彿とさせ、無意識下に沈んでいた記憶を呼び起こさせるものだったと解釈したくなった。まるでプルーストの小説のように。さらに想像を膨らませるなら、ひょっとするとロシアでのベッドに腰を下ろした日には雨が降っていたのかもしれない。

多くの人にとって頭がおかしいを感じられる行為や言動を宗教生み出すことになった人々は臆面無く行った。釈尊は苦行を自ら行い餓死しかけたし、キリストは40日間岩穴に籠って試す者と対峙してから新たな真理を説く活動家になったがその教えは周囲との摩擦を生み出し混乱をもたらした。ドン・キホーテやムイシュキン公爵も混乱をもたらした。
彼らのやることなすことはある意味頭がおかしく無様である。しかし彼らのやることなすこと、なんだあれ?と首をかしげるようなことこそが強烈な印象を与え、それには人を動かす変な力があるのは間違いない。それは映画の中のドメニコの狂人でもあり聖人でもある姿にも当てはまる。

ドメニコの壮絶な最期はなんであれ皆を救うための殉教であろう。アンドレイにとって約束を果たす行為は贖罪と救いを求めるものだろう。

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