デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



А・タルコフスキー監督「ノスタルジア」(1983)は何度も再鑑賞した映画である。とはいうものの前回の鑑賞は5・6年前ぐらいで昔の解像度のテレビ画面でしか見てこなかった。今回は一昨日にBSで放送された分を最高画質で録画し、初めて解像度の高い近年の液晶テレビ画面での鑑賞だった。
そのこともあって今回は異常に美しく感じた。また、これまで気に留めなかったセリフに気付けたりと今回は今回で鑑賞した価値があったと思う。とはいえ私などに手に負えるような映画であり続けていることは間違いないのだが。
今回新たに印象に残ったのは、アンドレイ・ゴルチャコフとエウジェニアが滞在するホテルには犬を連れた婦人だけでなく、他の宿泊客から「将軍」と呼ばれている場違い?といっていいような珍妙な音楽(中国仏教もしくは道教の経を唱える)を奏でる2Fに滞在している中国人の男性とその孫とおぼしき男の子だ。アンドレイと風呂上りのエウジェニアが口喧嘩して彼女がローマへさっさと発とうとする場面に「お経」の途切れない「か細い」声と鐘の音が聞こえ続け、そこでエウジェニアは作曲家サスノフスキーの苦悩の手紙に一通り目を通しつつも気に留めることなくローマへ発つ。この映画は劇的な効果音やBGMを極力排しているゆえ、いい大人の男女が口げんかする声が廊下に響いているにもかかわらず淡々とお経が唱えられるのが聞こえてくる様は却って印象に残るのだ。他人の喧嘩に対してある種の文化的国境があれば無関心でいられることが嫌でも分かるという意味だろうか(笑)。
アンドレイとドメニコが言葉を交わす場面で、アンドレイには二人の子供がおり一人は大きくなった娘、もう一人はまだ小さい男児がいるという点は今回非常に大きなポイントのように思えた。
というのはドメニコは彼なりの世界の終わりという観念から家族を救おうとして7年間妻と息子を家に幽閉した。ドメニコは家族に犠牲を強いた過去を持つ。アンドレイはロシアからサスノフスキーの研究や多くの名画を見るためにイタリアに滞在しているが、ロシアに置いてきている家族と過去にどのようなことがあったのかははっきりと描かれないものの、家族への気持ちに後悔や自己批判、煩悶・苦悶する様子が今回の鑑賞でより分かった気がした。つまりドメニコもアンドレイも家族に犠牲を強いている点で同じなのだ。温泉の周辺住民からは狂人扱いされているドメニコにアンドレイが初対面にもかかわらず口に出さずとも気持ちの根源的なところで「共感」し、アンドレイはロウソクを託されて承諾するであろうオーラを自身の悲しい過去で織り込まれたものから発しているといっていいのかもしれない。
私が思うに、そのあたりのことがアンドレイのことを偽善者と罵って癇癪を起こすローマへ発つ直前までのエウジェニアにはまだ理解できていなかったのだ。信仰に篤い古風な女性像に反感をもつエウジェニアは昔の女性の義務や価値観から自立して幸せになりたいだけでなく、作家や詩人ひいては芸術家のもつ創作の資質や霊感に憧れているフシが窺える。しかし、ドメニコに話しかけても適当にあしらわれることに見られるように、自分にその霊感が訪れなかったり自分が芸術家としての聖人ではないことをどこかで自覚しているものの整理がついていない。作家と付き合っても聖人が得るような霊感を得られない彼女には別のアプローチが必要だった。ゆえに彼女がローマで付き合い始めた口髭の男性はスピリチュアル系の魅力をもっている人物で、彼女はインドに連れて行ってもらえれば自分の中で何かが起こることを心待ちにしているのかもしれない。
そんな逡巡のさなかにいる彼女が、ローマで大きいことをすると言っていたドメニコの言を電話でアンドレイに伝えるという仲介役を演じるのはおもしろい。ローマにいたって彼女はドメニコのことを狂人ではないと言い切り、単なるアンドレイの雇われ通訳者兼愛人でなくなるのだ。
未だに腑に落ちない点もある。電話がかかってきた時点でロウソクの約束はまだ果たされてなかったが、アンドレイは「(方便で)約束を果たした」と受話器越しにエウジェニアに言った。彼女は騎馬像の上で演説するドメニコにアンドレイが約束を果たしたと伝えにカンピドーリオ広場への階段を駆け上がろうとするが、時すでに遅かったという一連の場面である。ドメニコもアンドレイも、場所こそ離れていても、どちらかの行為の結果を受けて自分の行動に移したわけじゃないのだ。
ドメニコはパフォーマンスに邁進してアンドレイが約束を果たしたかどうかを知りようが無い、が、それを指摘するのは野暮というものか。ドメニコにとっては約束は果たされたことになっているのかもしれない。
奇しくもその点でいえばドメニコの壮絶な最期をアンドレイは知らなかった。にもかかわらずアンドレイは最後の命を燃やし約束を果たす。彼女からの電話がある前に、終末のような荒れた石畳の道の端に置かれた鏡に自分の姿を映しているはずがドメニコの姿に映る夢に戸惑いつつも、それはアンドレイにはドメニコと"同化"したことを意味し、また気持ち上での約束への無意識の覚悟が出来たことを意味するのかもしれず、そうなれば行動をおこすきっかけとしては彼女からの電話だけで十分だったのかもしれない。
もちろん完全に腑に落ちたわけじゃない。ただ、未だに私にとっては不思議な展開・めぐり合わせであるにもかかわらず言い知れぬ崇高なものを感じるのは今も変わらない。

映画「ノスタルジア」の一場面ついて、こちらにも記事があります。

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