この、放屁のようなブログにお付き合い頂いております、読者様を洗脳すべく、では、決してありませぬ。
色んなことを感じるのだけれど、よくよくその内容を分解+リストラクチャリングしてみると、あまり、今までと変わった趣旨にならない。
それは、ある意味、自分自身が「山の如く」とも思うし「コリ固まってる」とも、思う。
でも、言いたいんだから、仕方がない。不愉快が予想されます方は、どうぞ、ヨソへ。
一般的には教習所や、免許取得のためのお勉強、時には義務教育で、「交通ルール」を、ほぼ全ての人間が学ぶ。
そして、その、ほぼ全ての人間が「交通ルール」の全てを守るわけではない、と思う。
まぁ、多分、コレを誰もが100%完璧に守れば、不幸な事故は激減するだろうし、各種保険料も激安になるだろう。ひょっとしたら、任意保険が不要な世の中になって、倒産する損害保険会社も出てくるかもしれない。
んでも、そんな、パラダイスな世の中には、絶対、ならない。
ほぼ全ての人間が「交通ルール」の全てを守るわけではないからだ。
そう、そして、その斟酌は全て個々人に一任されているのだ。
定則走行速度で、全ての路上でこなす人物、オレは1人だけ知ってる。スゴイ。
自分の後方が大名行列のようになっていても、全く気にしない、ある意味、大人物だ。
現実、彼の行列に加わるドライバーは業を煮やすだろう。交通ルール上は正しくても、多分、社会悪だ。
コレだけでも、「交通ルール」が、あまりに脆弱である一端が見え隠れしている。
守っていれば安全なはずの交通ルールであっても、守られたりはしないのだ。
シートベルトをしないのと、法定速度の倍速度で走るのと、斟酌の相違だけで、危険行為であることには変わりない、と、オレは思う。
「んなことないだろう」と言う声が聞こえてくる。
ナゼ変わりないのか。
他人に損害を与えるのも、自身が毀損されるも、責任は自分で取るしかないからなのだ。
任意保険に入っていれば、保険金はおりる。
だが。おカネでは責任は取れないのだ。
誰かの片腕を奪ったとしたら、その責任は、保険金というおカネでケリがつくものではない。
自分自身の片腕が奪われて、おカネでケリがつくと思ってるヒトは、いないと思うのだ。
そう、責任は自分で取らなければならない。「交通ルール」を守っていても、だ。
それを一生、背負い込んで、生きていくのが責任なのだ。そんな想像の未来に耐えられる神経をオレは持ち合わせて、いない。
だから、「交通ルール」なんて、役立たずのクソッタレだと思うのだ。
「オレは交通ルールを守ってたのに」なぁんて言ってみても、結果は変えられたりしないのが、現実だ。
オレは、誰かを傷つけた時に、「自分は交通ルールを守ってたのに」と主張するご都合主義者を許したりしない。
結果に対する責任をキッチリ取るべきだ。
オレの家族が被害者なら、オレが、この手で責任を取らしてやる。
少なくとも、路上に出る以上は、かくあるべきと思うのだ。
交通ルール、関係ないね。オレはオレのやり方で「機体と人命を尊重」し続けるだけだ。
だから、オレは、他人に危険の原因を押し付ける人物を、宥恕しない。
危険は、ソイツ自身の中にこそ、あるのだ。絶対、あるのだ。