憧憬、大艦巨砲主義w

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真実。

2006-07-09 21:13:21 | 俺だよ、オレ。
 

あなたの真実は何処にあるのか。
そして、それは本物たりえるのか。

この問いに明確に答えられる人は、信仰に生きている人が、ほとんどではないだろうか。また、信仰に生きる人であっても、その信仰が一度たりとも揺らいだことがない人は、僅かではないだろうかと推察する。

真実には、2種類あると思う。

ひとつは五感で感じる、正確に言うと自らの感覚器官で認知する、事実と言う真実だ。オレにとって赤く見えるものが他人の目から赤く見えるかどうかは、意味のない議論だ。
広義では、それがオレにとっての赤であり、相対的に赤である必要は、ない。
しかし、それは非常に不安定なものだ。体調によっても変わるし、そもそも五感自体が錯誤を伴う場合も、そう珍しくないからだ。
そう、オレにとって、事実と言う真実はアイマイモコとしたものだ。

もうひとつは、信念という真実だ。
任意の時点においては、コレは揺るがない。その時は本当にそう思っているし、それを信じて行動するのだ。もちろん、これも、絶対的な真実など存在しない。
誰にもカレにも共通の真実などないからだ。だからといって、これもまた相対的なものではなく、個別に絶対的なものなのだと思う。
さらに、オレ自身においても、時点時点で異なってくるし、相反する信念と言う欺瞞や誤謬を内包している。当然のことながら、他人のそれに対しては、さらに無関心という事情も加わる。
ただ、信念という真実はその時点では、揺るがない、明確なものなのだ。

さらに厄介なことがひとつ。
事実は、記録や記憶に明確に残すことができるが、その時点での信念は、なかなか記録や記憶に残すことができないということだ。

んで、何が言いたいのか。
オレにとっての真実とは、事実の積み重ねによって明確化され、現在持ちうる信念、と言うことだ。
そして、その事実の積み重ねは、アイマイモコなものでしかないのだ。従って、現前の信念も本当に正確なものかどうかは、怪しい。勝手な、オレ自身による不作為な捏造事実かもしれないのだ。特に、記憶というものが、概ね、イイコトにしろ悪いことにしろ、現在の自分に都合のいいことを中心に構成されているのは体験的に誰もが感じることだろう。

それでも、その信念はオレにとって、真実たりえるのだ。

そうなのだ。
この理解は自分に向けられるべきものではない。自分以外の他者に向けられねばならない。自分以外のヒトの真実は、その事実がいかなるものであっても不可侵な領域であって、明確な正当防衛であってもその侵害は忌避されるべきなのだと思う。

その意味において、いわゆる、概念と呼ぶには程遠い「レッテル貼り行為」は、全く卑しい行為なのだと思う。

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