四国遍路結願の足で、高野山に向かった私でしたが、持っていたイメージとあまりにも違っていたので驚きでした。
現在117の寺院がありますが、宿泊でないかぎりは拝観できそうな雰囲気のお寺は、なかなかありません。
「摩尼宝塔」を持つ成福院さんの前には、おとなしいワンちゃんが参拝者をお迎えしてくれます。
この塔の発願者である「成福院」前住職、故・上田天瑞大僧正(元高野山大学学長)さんは、昭和16年、南方仏教研究のためにタイ国に至り、大戦の勃発によって陸軍嘱託としてビルマに進駐。
ビルマ各地に日本語学校を設立し教育に挺身、その後ビルマ僧となって修行し、ビルマでは身をもって悲惨な戦争を体験したそうです。
昭和19年、ビルマ仏教協会より贈呈された釈迦仏像と大蔵経を奉持し無事に帰国した大僧正は、この仏像をご本尊としてビルマ戦没英霊を高野山において供養することを発願し、苦心13年の歳月を要して、昭和40年第1期の摩尼宝塔工事を終了、今日の基礎を作ると共に、日々護摩供養を厳修して英霊の菩提を弔いました。
昭和59年、弘法大師御入定1150年御遠忌大法会に当たり、前住職の遺志を継ぎ摩尼宝塔完成を発願した仲下住職は戦友・遺族・有縁の信者の協力を得て、三層八角の荘厳な宝塔の完成を成就しました。
摩尼宝塔には日本ビルマ親善のため、ウ・ネウイン前大統領より釈迦像を、ビルマ高僧ウ・サンディマウンタ大僧正から、大理石獅子が贈呈されました。
立派な山門ですね。
刈萱道心と石童丸の悲話・石童丸物語で有名な「刈萱堂」。
刈萱道心が出家したいきさつから、息子の石童丸がこの高野山に父を訪ね、母の死をきっかけに父子と明かされる事が無いまま、ともに修行したと伝わるお堂です。
建物内の周りには、この物語が描かれた絵と解説が飾られています。
人の心のあり方を考えさせられたお堂でした。
恵光院は、宿坊に泊れば阿字観などの修業体験ができます。
今回宿坊は予約でいっぱいでしたので、参拝にご朱印を頂き、お堂に入る許可を頂いて、お勤めをしました。
阿字観の建物。
他の寺院へは立ち入りがたい雰囲気のため、山門等を見て回る感じでした。
さて高野山の町から少し離れたところに「徳川家霊台」があります。
徳川家霊台とは、徳川家康と秀忠をまつる東照宮をいうそうです。
徳川家霊台のあるこの場所は本来、聖派の代表寺院である大徳院の境内だったのですが、大徳院自体は明治になって他の寺院と合併したたため、霊台だけが残ったそうです。
大徳院に東照宮を勧請(かんじょう)することを、早い時期から幕府に参画していた天海僧正に願い出ていたらしく、造営に着工したのは寛永10年(1633)頃で、同16年には、正式に将軍家光より認可され、同20年に竣工し、4月17日には落慶法要が行われました。
大徳院は、代々徳川家との関係が深い寺院で、後に家康によって、それまで蓮華院と呼んでいたのを、「大徳院」と改められたともいわれているそうです。
建物は桁行(けたゆき)三間、梁間(はりま)三間、一重宝形造、一間の向拝を有し、屋根は瓦棒銅板葺。
内部は絢爛豪華な須弥壇と厨子を設け、蒔絵などが施されているそうですが、外側からしか拝見できません。
徳川家霊台から少し歩くと「女人堂」があります。
高野山は八葉の峰と呼ばれる1000m前後の山々に囲まれた山上の平坦地で、明治5年に女人禁制が解かれるまで、厳しく女性の入山を規制してきました。
高野山への参道としては俗に「高野七口」と呼ばれる街道が通じており、かつては各入口に女性のための籠り堂として女人堂が建てられたそうです。
女人信者は御廟を拝みたいと、女人堂から女人堂へ八葉蓮華の峰々を辿ったといわれ、その道は「女人道」と呼ばれているそうです。
出家した身内に会いたいと、この女人堂から泣く泣く祈りをささげた女性たちも、おられたことでしょう。
そういう意味では、現代の女性として生まれた私は、自由で幸せですね。
今まで歩いてきた高野山を振り返ってみました。
四国遍路結願と高野山の旅も、過去のものになってしまいました。
女人堂前にバスが停まったその時から。
コメントありがとうございます♪
高野山の旅も四国のお遍路も終わり、それらの思い出お最後のブログでした。
毎日、寺院のことなど綴っておりましたが、見て下さる方も多くいらして、大変うれしかったです。
これからは「東北ネタ」が中心となっていくと思いますが、また気が向いたら来て下さいね♪