花自体はまだ枯れていないので、もう少しこのままにしておきたいとも思う。
花の気持ちはどうだろう。
こうなってしまうと輪っかは、胃ろうや鼻チューブを連想させる。
やっぱり、抜こう。
ねじる必要もなく、抵抗なく、すっと抜けた……正解だったんだ。
花自体はまだ枯れていないので、もう少しこのままにしておきたいとも思う。
花の気持ちはどうだろう。
こうなってしまうと輪っかは、胃ろうや鼻チューブを連想させる。
やっぱり、抜こう。
ねじる必要もなく、抵抗なく、すっと抜けた……正解だったんだ。
孤独死とか孤立死ではなく、その友人には、上野千鶴子氏の言葉を借りて「在宅ひとり死」がふさわしい。
歳は10歳以上も上だったけれど、某団体の同期だったので、タメ口で愚痴を聞いてもらったり、時には聞かされたり、憎まれ口も言える、20年以上にわたって毎週顔を合わせる存在だった。
グリーンズ・テイブルにも時折コメントを残してくれた。
突然死。
町内会の方のおかげで、比較的早い段階で発見された。
数年前、「死んだあと、見られてもいいようにメールは全部消した」なんて言っていた。
無意識の予感ってあるのかな。
意識が遠のく瞬間、突然の終わりに戸惑っただろうか、それとも、ほっとしただろうか。
「在宅ひとり死」はこれからますます増えるだろうし、また、残された遺族が片付けを担うのだから、本人だけの問題ではない。
一人暮らしの立場では安否が周囲にわかるように、その親族は安否確認を怠らないように、お互い気遣う大切さをつくづく…
「んだから、相手にするなって、同じレベルになるなって」言われたことが蘇る。
あの、人懐っこい満面の笑みはもう2度と見られない。
画像は今夕。
友人、知人、親族、たくさんの人を見送る歳になった。
この晩秋にも、十代の多感な時期に毎日会っていた同い年の友人が逝った。
ちょうど、ドヴォルザークのチェロコン練習が佳境に入った時期だったので、生涯この曲を聴くたびに、思い出すことになるのかも。
「治るような気がしている」と言った闘病中の彼女を前にして、自分の悩みなどはとるに足らないと思った。
「遊びをせんとや生まれけむ」
それを意識すると、煩わしいことや迷いごとなどが、どこかへ。
一生懸命、遊ぼうぜ、戯れようぜ。
せっかく生まれてきたんだもの、楽しまなきゃ。
そうできないものはためらうことなく、手放そう。
それが叶わないなら…努めて楽しむほうへ変換しちゃお!
だって、遊びをせんとや生れけむだもの。
昨夜の落雷と集中豪雨、ちょっと怖かったです。
今日の一枚は夕方の空、色々な雲が行き交い、まだ不安定。
朝ドラで「今日が人生最後の日だったら」というセリフがありました。
私なら何をするだろう。
即答で、 か・た・ず・け。
いや、もう死ぬのだから、整理整頓よりも、多方ゴミ袋へ入れまくる。
それでも、一つ一つの思い出が蘇り、ゴミ袋へ運ぶ手が遅くなり、
気がつけばもう夜。
あたりを見渡せば、片付いていないどころか、ますます散らかっている。
アタシは今日死ねません、あと1週間はください
てなことに。
ロマンチックのかけらも無い、私の最期。
あなたは?
新聞や雑誌などに載った珠玉のエッセイ、コラムを抜萃して小冊子に纏めた「抜萃のつヾり七十二」(発行:(株)熊平製作所)を外出先での待ち時間に読んでいてウルッとなり、ヤバイヤバイヤバイ…
「最期の晩餐」
八木睦美
病名を告知された瞬間、父が肩をがっくりと落としたのを、私はいまでも鮮明に覚えている。5年前、父は六十一歳の若さでこの世を去った。銀行を定年退職して一ヶ月後に肺に癌が発見され、一年間の闘病生活を送った。その闘病生活の末期、いよいよだと悟った父は、最期は我が家で過ごしたいと言った。家族全員が集う居間に父のベッドを用意し、父を囲むようにして、家族は最期の数日間を過ごした。内臓の機能がほとんど動かなくなってしまった父は、口から食べ物を運ぶ事はできず、点滴で養分を補給していた。そんな父が、
「睦美、たまごかけごはんが食べたい」
と消え入るような声で言った。
「うん、直ぐに用意するから」
そう答え、私は台所へと駆け込んだ。私は、父の茶碗にご飯を盛りながら、父から聞いたある話を思い出していた。父が幼い頃、卵は高級品で、病気になった時以外は、滅多に口にする事ができなかったそうだ。ある日、どうしても卵が食べたかった父は仮病を使い、風邪のふりをして布団に潜り込んだところ、祖母が、たまごかけごはんを食べさせてくれたと、父は私たちに話してくれた事があった。その話を思い出した瞬間、
「今の父の病気も仮病だったら…」
その思いで、私の胸はいっぱいになった。そして、瞳の奥から涙が溢れてきた。そんな私の姿を見ていた母は、
「泣いちゃだめ。お父さんの前では絶対に」
そう言い、私の肩を優しく叩いた。
「お父さん、たまごかけごはん、持ってきたよ」
私は、できる限りの笑顔を作り、居間に戻った。私は、スプーンに一口のご飯をくすい、父の口元に持っていった。舐める程度の少しのご飯を、父は懸命に噛んでいた。
「おいしいよ」
父はそう言いながら、一筋の涙を流した。その涙を見た私たち家族は、ついに耐えきれなくなり、父に抱きついて泣いた。
「お父さん、仮病だよね?たまごかけごはんが食べたいから、病気のふりをしているんだよね?」
私は父に聞いた。
「そうだったらな…。そうだったらいいな…」
頼りない声で父はそう言った。父のこの病気が仮病であったらいい…。どうか、神様、仮病でありますように…。家族の誰もが、そう祈った。その翌日、父は静かに息をひきとった。父が、最期にたまごかけごはんを選んだのは、子供の頃、仮病を使ってたまごかけごはんを食べたように、この病気も嘘であったら…、という一筋の願いからだったかもしれない。父が他界して以来、私は、たまごかけごはんを食べなかった。父を思い出し、切なくなるからだ。父の五回目の命日、私は、たまごかけごはんを作った。箸を口に運び、ご飯を舌にのせた瞬間、目頭が熱くなってきた。私は、食べかけのたまごかけごはんを、父の仏壇にそっと供えた。
(やぎ むつみ=会社員・潮「潮エッセイ大賞 選考委員特別賞」24年10月号)
亡くなった父と重なったりして。。。
医師から治る見込みがないと家族に言い渡された後、入院生活が長くなって家に帰りたくてしょうがない父に2時間だけの帰宅許可が下り、連れ帰る。
食べ物が殆ど喉を通らない父に作ったのは卵とじうどん、少しだけ口にしてくれた。
居間から庭を眺めたりしながら住み慣れた家で過ごした最期の時は、10年前のよく晴れた夏の終わり。
画像はその庭から持ってきたアメリカ仙翁(名前を教えてくださったのはalchemillaさん)、今年も色鮮やかな咲っぷりでした。先月撮影。
明日はお墓参り。