プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

三浦広之

2011-10-30 22:01:34 | 日記
三浦広之投手
投球フォーム・右オーバースロー「速球主体の本格派で低迷期にはサイドスローにも挑戦した」
球種・クロスファイヤー気味のストレートが武器で変化球は大小2種類のカーブ、シュート、スライダー

年棒の推移
1978年「220万」・1979年「500万」・1980年「570万」
1981年「550万」・1982年「480万」・1983年「450万」

・1978年、プロ1年目を迎えた三浦は同期入団の松本祥志「東洋大姫路高」とともにMMコンビとして将来の阪急のエース候補に抜てきされ2軍では徹底した英才教育を受けた。三浦は3連続完封、37回3分の2連続無失点などの実績を引っさげ6月の中旬過ぎには待望の1軍入りを果たし、6月24日のロッテ戦では初登板を初勝利で飾り、7月21日に行われた第1回ジュニア・オールスターゲームでは先発投手を務めた。この年、4勝1敗、防御率3,44と高卒1年目としては及第点の成績だった。2年目のキャンプでスライダーを習得し投球の幅を広げた三浦は4月18日の西武戦「西武球場」の完封勝利を皮切りに4勝までがオール完投、
前期だけで6勝を稼ぎ防御率は2,82と大躍進を見せたが7月15日の近鉄戦「秋田」で栗橋茂に3ホーマーを浴び敗戦投手になってから6連敗、故障にも泣きプレーオフ直前には右アキレス腱を痛め登録抹消、予定されていた米教育リーグ参加も棒に振ってしまった。1980年、3年目の三浦はまずまずのスタートを切ったが6月17日に原因不明の右肩痛で2軍落ちした。この年以降はフォームもサイドスローに変更し再起を目指しファームで汗を流したが故障には勝てず、2度と1軍のマウンドを踏むことはなかった。プロ6年目の1983年11月4日、三浦は「体力の限界」を理由に引退を申し出、これが受理された。
阪急・退団直後の三浦「今シーズンにかけていたが、いいときのフォームを思い出せなかった。野球には未練はありません・・・」と言葉を詰まらせた。

阪急球団史上・異例ともいえる人気ぶりだった
・「プリンス」「貴公子」「玉三郎」三浦には、きらびやかなニックネームはいくらでもあった。ファンレターは1日に20通近く舞い込み、特に女学生に圧倒的な人気があり阪急が東京遠征に出たときなど宿舎には朝早くから三浦見たさの女学生が群れをなして押しかけてきた。1979年には史上初の「ジュニア・オールスター」と「1軍のオールスター」の掛け持ち出場を果たし本番の1軍オールスター第1戦「大阪球場」では掛布雅之「阪神」を3球3振に仕留めている。

プロ初勝利
1978年・6月24日・阪急ーロッテ前期11回戦「西宮球場」観衆5500人・試合時間・2時間12分
ロ000010000・1
急00200101・・4
勝ち・三浦、セーブ・山田、負け・広木・・本塁打・山崎裕7号
・阪急投手陣・投球内容
三浦6回・3安打・6三振・四死球1・自責1
山田3回・1安打・4三振・・・・・・・・・自責0
・注目を一身に受けマウンドに上がった三浦は初回、有藤を歩かせたが、得津を3塁ゴロ併殺に切って取り、4回まで無安打。
5回1死後、山崎裕に左翼ポール直撃の本塁打を許したが6回を1失点、山田の好リリーフにも助けられプロ初勝利を挙げた。
お立ち台インタビューでは「まだ信じられません」「中沢さんの構えるところへ思い切って投げただけ・・・」と夢心地の様子だった。

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田端謙二郎

2011-10-30 21:57:17 | 日記
近鉄の田端がよく投げた。五回投げて安打三、矢ノ浦に二塁打を浴びせられた以外は、
あぶなげないピッチング。直球、カーブのコンビネーションがよく、しかも低めに
集ったから効果があった。シュートが生きてくれば楽しみなシーズンになりそう。

しかし、田端は入団した年からその翌年にかけて、投球フォームについて投手コーチから執拗に
アドバイスされていた。それは軸足になる右のヒザが折れすぎているのが原因で制球が安定しないと
いうものだった。田端は「オレはこのフォームでノンプロ時代、強打の
サッポロビール・チームを完封したこともあるんだ」と思いながらも、できるだけアドバイスに
そってフォームを直していった。そこに迷いが生まれた。翌年ファーム落ちした。
ファームで4年投げた。4年目にはファームで10勝1敗、しかし一軍へカムバックすること
はできなかった。それどころか、その年の契約更改の席で「君は任意引退選手だ」と宣告された。
そして「打撃投手兼スコアラーとして球団に残らないか。年棒はいくらかプラスしょう」ともいわれた。
「あのときは悔しかった。ドラフト1位で入団した自分が打撃投手かと思うと泣けてきてしようがなかった。」
しかし、あれから8年たった現在は「もう迷いや悩みは完全に吹っ切れた。自分の球を第一線の打者が
ガンガン打ってくれると、なんともいえぬ生きがいを感じる」1965年、ドラフト1位で彼が近鉄入りしたとき、
2位に指名されて入団したのが、最後の300勝投手・鈴木啓示だった。


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石田真

2011-10-30 21:48:51 | 日記
石田真投手・・・「愛称・・マコ」

投球フォーム・・184センチ、81キロの恵まれた体格を生かした本格右腕だが、ヒジの使い方に課題を残すフォームだった。
体全体の筋肉が硬い体質で肩と足の故障が多く、立ち上がりが悪い点も指摘されていた。

球種・・ストレート、カーブ、シュート、スライダー、パームボール、チェンジアップ
得意球はカーブでコントロールは絶品だった。

・華々しくもないが石田の球歴はちょっとしたものだった。中学2年から投手をやり、一級品のスピードボールであの作新学院から
熱心に勧誘されたが野球で身を立てる考えの無かった石田は専門的な技術を身につけようと足利工業に進学した。
1年夏から足利工のエースを務め、とてつもなくスピードのある右腕として知る人ぞ知る存在で、高校では1学年下の
江川卓「作新学院」が当時「石田さんのような投手になりたい」と語った話があるほどだから相当なものだった。石田は足利工の
3年間でノーヒットノーランを5度も記録し「北関東に石田あり」とプロのスカウト連に注目され1972年のドラフトで阪急が
1位指名、契約金1千万、年棒180万でプロに身を投じた。翌年の1973年のドラフトでは江川卓「作新学院」が
阪急に1位指名されており、江川とは浅からずも何かと縁があった石田だった。

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土屋紘

2011-10-30 21:47:18 | 日記
絶対的な決め手になる資料がないので、1972年当時の土屋投手のインタビュー記事の一部を掲載します。

Q・ピッチングフォームはどのように変えてきたのか?

土屋「臼田高、駒大とフォームは変わってませんよ。オーバースローをアンダースローに変えるといった大きな変更は

ないのですが、ちょっとした細かい点、例えばタメがあるとか、モーションでタイミングを外すとかいった、

そんな程度ですね」

Q・決め球にしているボールは?

土屋「ぼくなんか、まだそんな得意のボールなんてありませんよ。それに、あまり器用じゃないし変化球も得意

じゃない。いちばん多く投げているのはストレートかな。またストレートじゃなければ、ストライクが

とれませんからね」


Q・これからの課題は?

土屋「もうちょっと、思ったとおりのところへタマをほうりたいですね。まぁ、結局コントロールをよくすることに

なりますかね。それとあと落ちるタマを覚えたいです。ゴロで打ち取れるタマをほうるように

したいです」

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